20年ほど前、当時の多くの若者達――僕もその一人だったのだが――が、自分の存在の手ごたえを得ようと、“自分探し”などと嘯いて、バックパッカーとしてアジアなどを放浪して歩いたものだが、それが何の役に立っただろうか。せいぜいのところ、自分のせせこましいナルシズムを満足させただけではないか。それに較べれば、今の若者達の方がずっと実のあることをやっているのは疑いようがない。動機が何であれ(直接被災者の役に立ちたい、ということではないにしても、“不純”とまでは言えないだろう)、結果的に被災地や被災者の役に立っているのは確かなのだし、次に大災害に見舞われた時の、絶好の備えにもなっているはずだ。また、そうした若者達の姿が海外でも取り上げられ、日本や日本人に対するイメージを、確実に良い方向に導いている。
今どきの若ぇ者②
精神的な強さとは、堅牢な信頼関係がなければ生まれない。かつての日本社会には、前提としての信頼関係があった。そう考えれば、随分贅沢で豊かな時代だったと言える。
“昔はみんな貧乏だった。今のように物が豊かではなかった”という反論は当然あろう。しかし、今の世の中を“物の豊かな時代”と感ずることができるのは、豊かでなかった状況を経験したからだ。最初から与えられたものが、それを豊かだと受け止めることはできない。例えば、戦国時代に較べて江戸時代は相当豊かだったはずだが、江戸期よりずっと豊かな時代に生まれた今の大人世代が、自分たちの生まれた時代を“豊か”とは言うまい。“今ほど豊かではなかった”と言うはずだ。物が豊かにある今の状況が、それを前提条件として生まれた今の若者達にとって「退屈で、うんざりする日常」に過ぎないとしても、非難することはできない。その非難を江戸期の庶民に聞かせれば、きっとこう言うだろう。
―――なんでぇ、てめぇだっておんなじこと言ってんじゃねえか―――
今どきの若ぇ者①
―――まったく、今どきの若ぇ者は―――
こういうものの言い方は、古代ギリシアにもあったらしい。いつの時代でも、老人たちにとって若者は、眉をひそめる対象だったということだろう。身の回りの物事の変化が、これまでのどの歴史時代にもまして大きい現在、こうした若者への風当たりは一層強まっているのだろうか。当否は分からないが、僕が気になるのは「今の若者はコミュニケーション能力が低く、精神的に弱い」という言い回しだ。
また、“ゆとり”という言葉は、本来肯定的な意味しか持たないはずだが、そこに“世代”という二文字がくっついた途端、若者を貶めるニュアンスに変化してしまう事にも、釈然としないものを感ずる。というより、われわれ大人世代が、自分たちの理不尽な在りようを隠蔽するために、都合よく口にしているようにしか聞こえない。
【こどもの日】衛艮、兜を買う☆My dream has been realizedⅢ
もう8年前になるだろうか。当時、今よりもさらに貧乏だった僕は、その前年の5月5日、端午の節句の日に、五歳だった長男を伴って山に登った。カムフラージュである。父親の僕が武道をやっているくせに、子どもの日に甲冑を準備できない矛盾をツッコまれないためだ。
釈然としない顔の長男を連れて登るには登ったが、山頂の神社で催されていた祭礼でもらったお菓子の中に、長男のアレルギーに引っ掛かる食材が入っていたからさあ大変。うっかり口にして大泣きする長男を病院に担ぎ込み、医者から怒られるわ、妻からはどやされるわ。しまいには、この登山そのものがカムフラージュだと気づいた長男から、“来年はせめて兜は買ってやるから”と約束させられる始末。無邪気な子ども相手の謀は、やはりそう上手くは運ばないらしい。
【居合の道】The way of “IAI”
“居合道”なるものをご存じだろうか。“合気道”という、相手の力を利用して投げたり押さえ込んだりする武道としばしば間違われるが、無論のこと別の武道である。
よく知られている剣道とは兄弟分とも言える間柄で、剣道であれば竹刀で相手と打ち合うが、居合道では真剣を使う。もちろん真剣では打ち合えないので、稽古は専ら“型稽古”という、相手の動きを想定し、それに応ずる動き・手順を繰り返すトレーニングが主体となる。時々は竹や藁束を斬る事もあるが(これを“試斬”という)、あくまでも主体は“型”というイメージトレーニングにある。そう考えると、居合道とは随分と地味な武道と言えるかも知れない。
伝える資格
仕事帰りに、駅前の交差点で信号待ちをしていた時のこと。赤の歩行者信号をぼんやり見ていると、腰の曲がった小さな老婆が、僕の目を下から窺うように、話しかけてきた。
“お釈迦様は、○○経を説く以前の教えは捨てなさいと、はっきりおっしゃった。そして、『○○経』を唱えなければ人は救われない”
というような内容だった。彼女の信ずる仏教宗派に僕を引き入れ、ご親切にも救ってくれるということらしい。
【夢】黄金の鬼
家族と時々行く、国営公園がある。広い敷地の中で、子どもたちが思いきり体を使って遊べる施設・遊具が豊富で、信州の自然をテーマとした屋内展示も充実しているから、大人でも充分楽しめる。我が家からは車で一時間半ほどかかるので、しょっちゅう行けるわけではないが、だからこそ何回行っても飽きることがない。休日に「国営公園に行くぞ」と宣言すると、当時小学五年生を筆頭とした三人のガキんちょ共(全員男の子)が、その度に大喜びしていたくらいだ。
【現代武士道】‟忠”の風
我々信州人(長野県民)は、他県の人々からしばしば「理屈っぽい」と指摘されるようだ。最近はそうでもなくなったが、ほとんどすべての信州人から、「お前ほど理屈っぽい奴は見たことない」と言われ続けてきた僕は、ここ日本では、トップクラスの理屈っぽさの持ち主なのかもしれない。いかにも面倒臭い。なるほど、女性にモテないわけである。
【My dream has been realized Ⅱ】衛艮、寄付をする
サムライになる夢を叶えたエピソードはすでに掲載してもらっているが、それとは別に、僕にはささやかな夢があった。文学賞の賞金とか、ライターとしていただく原稿料から、公共に資する寄付をすることだ。
【セイント・フォー】迷惑な人々☆仏陀とイエスと孔子とソクラテス
僕はクリスチャンではないが、キリストと呼ばれたナザレのイエスが大好きである。彼はギリシャの哲人ソクラテス、儒教の開祖孔子、仏教の開祖ブッダといった人たち同様に、自分が生きた時代や状況に広まっていた考え方・常識に、コペルニクス的転換(天動説を地動説で覆すほどの逆転)を施した人であるが、その鮮やかさ・力強さという点では群を抜いている。