僕は古典落語の“与太郎噺”が好きだ。
“与太郎”とは昔風に言う「少々おつむの足らない男」で、大抵は長屋かお店に住んでいる。悪さはしないが生活力に決定的な欠陥があるので、長屋の熊さん、八つぁん、大家さん、おかみさん、ご隠居さん、棟梁、旦那さん、番頭さん達が何かと世話を焼き、与太郎がなんとかやっていけるように知恵をつける。が、与太郎は教わったことを間違って憶えたり、全然筋違いの場や文脈で実践してしまうので目的と噛み合わず、それを見て頭を抱えた皆が改めて知恵をつけ直すと、ますますトンチンカンな結果を引き起こす、というのが大方の筋である。
寄席に足を運び始めた当初、与太郎噺のユーモラスな筋立てに大いにクスグられながらも、僕は腑に落ちないものを感じていた。何故与太郎の周囲の人々はここまで与太郎の世話を焼くのか。
センター与太郎①
出来の悪い奴に周囲が必要以上にコミットするユーモアは、昭和50年生まれの僕はそれなりに経験している。かつての“8時だヨ!全員集合”でも、不出来な生徒・社員の“シムラ”を先生・上司の“長サン”がしょっちゅう怒鳴りつけては笑いを取っていた。してみれば、この「出来の悪い奴に必要以上のコミットをするユーモア」は、日本の伝統的な笑いの型の一つであるとも言える。が、“全員集合”と“与太郎話”には決定的な違いがある。前者では権力関係が明確にあるが、後者には“役割・立場の違い”はあっても権力関係はほとんど見られない。また前者では“長サン”に、もしそれが可能なら“シムラ”を集団から排除・追放したいという願望が見て取れるが、後者にはそれが無い。むしろ与太郎は常に皆の中心にいる。長屋やお店のみんなが与太郎の世話を焼き合うことでコミュニティを形成している観すらある。
考えてみれば、与太郎の世話ほど割に合わない事はない。仮に与太郎が教えた通りにやりおおせても、もともと生産性が極端に低い人物なので実質的な見返りはまず期待できないからだ。また与太郎は“足りない奴”ではあっても“アブない奴”ではないので、人々が将来の災厄を予防するという観点からコミットしているわけではない事は明白である。つまり、棟梁も旦那さんも、完全な無償の行為として世話を焼いているのだ。なぜ皆が皆、大汗かいてこんな奴の面倒を見るのだろう。しかもご棟梁も隠居も、ほとんど無条件に、というより条件反射的にこれをやる。まるで「不出来な奴は皆で世話をしなければならない」という暗黙にして強力なルールでも存在するかのようだ。与太郎は与太郎で、外れ者としての後ろ暗さを全く見せず、実にのびのびと生きている。この呼吸が何としても分からない。なぜ古典落語ではこんな特殊な力学が成立しているのか。
しかしこの力学が決して特殊なものではなかったことに思い至って、僕は衝撃を受けた。
数年前、小学校に上がった長男に「お父さんやお母さんがお前くらいの頃に見ていた番組だ」と言って、“全員集合”のDVDを見せたときの事だ。長男は興味深くドリフターズのコントを観ていたが、ふとこんなことを漏らした。
「長サンは何でこんなにシムラを怒ってばっかなの? そんなに嫌なら、ほっとけばいいのに」
愕然とした。与太郎噺に共感出来なかった僕と同じことが、長男と“全員集合”の間にもあるのだ。何故長男は共感できないのか。理由は簡単だろう。彼の周りに、“全員集合”的な世界や文脈が存在しないか、するにしても相当希薄なものになっているのだ。
考えてみれば、小学生の僕が“全員集合”を観て笑ったのは、自分の周囲に同じ文脈があったからだ。場合によっては自分自身がシムラや長サンのいずれかの役割を受け持つことも珍しいことではなかった。だから共感できたのである。
ここに思い至って、僕は背筋の凍るような恐怖と、途轍もない感動に同時に見舞われた。
長男の周囲からは、すでに「能力の低い者の面倒を必要以上に見る」という感覚や文脈が相当程度失われている。ゼロではないだろうが、僕が彼と同い年の頃に周囲に普通にあった関係性が、たかだか30年程で普通ならぬ特殊なものとなってしまっているのだ。これは、この国の最も基礎的で最小単位の人間集団の中にあった教育力、といより教育的意思の重要な部分が失われたことを物語っている。“与太郎”は、2,000年以降にタイムスリップすれば「LD」「発達障害」「高機能障害」などの、いわば“病名”を付けられてしまう人物だろう。今僕らが生きているこの社会は、そうした通常のコミュニケーションを取ることが困難な対象を、何とかコミュニティの中に引き留めようとする意志やエネルギーを喪失しているのだ。長男の言葉にはこのあたりの消息が端的に現われている。
現代の与太郎たちは、“通常のコミュニケーションが出来ない”と見なされた途端、周囲からそれ以上のコミットを断念され、適当な病名を冠せられ、周辺に隔離される。しかもそれは「福祉」の名のもとに行われるのだ。何と恐ろしいことではないか!
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
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心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
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