夏が終わり、秋に入りました。
私の住む北国では、もう冬の足音が聞こえてきています。
すべての生命が一歩一歩、冬に向かって足を進めています。
死と共に生きる
春は命が生まれる季節。
夏は命が栄える季節。
秋は命が枯れゆく季節。
冬は命が死にゆく季節。
そして春になれば、また新たな命が芽生える・・・
春夏秋冬、命は生から死へ、死から生へ、刻々と巡りゆく・・・
秋。
多くの命が枯れ、死に向かっていきます。
一年を通して畑で野菜作りをしていると、命の巡り、命の生死というものを身近に感じます。
種から生まれた野菜たちが夏に盛んに生長し、秋になると力衰えて枯れ、冬には土に還って死んでいく。
野菜たちと一緒に生きてきた多くの草もみな色あせ死んでいく。
畑の周囲を取り囲む山や森の命たちも、自然の摂理に従って終わりを迎えます。
青々と生命力にあふれていた木の葉も、枯葉となって大地に落ちてきます。
一枚一枚の葉にも死があり、命の終わりがある。
畑で野菜や草と共に生きてきた虫・小動物たちの多くも、冬がくればその命を全うし、何事もなかったように静かに消えていきます。
小さな虫たちにとっては一年にも満たない生涯です。
生あるものは必ず死を迎える。
どんな命も、必ず終わりを迎える。
それは生の摂理。
生の秩序。
すべての生命が、生まれ、生き、死んでいく―
自然の命たちは、なんと潔く死んでいくのでしょう。
彼らはこの世に生まれ、つかの間の生を生き、風のように去っていきます。
彼らは死を恐れることなく生き、消えていきます。
死にゆく一枚の葉は、死を恐れていません。
虫たちも、動物たちも、死を恐れていません。
死んだあと自分がどうなるのか気にもしません。
死が来たら、その死を受け入れ、抵抗せず、そのまま死んでいきます。
みな、まっすぐに、無言で死んでいきます。
そこにいかなる疑問も、迷いもありません。
怒りも、悲しみも、葛藤も、何もありません。
まっすぐに、ただまっすぐに死んでいきます。
彼らの死を見るとき、命の純粋さ、美しさを感じずにはいられません。
無言で、静かに、厳かに死を迎えるその姿。
美しく尊い生命の姿。
君は、地面に落ちる木の葉が死を恐れていると考えますか。
鳥は死を恐れていると考えますか。
鳥は死が来るとき、死に出会います。
しかし、鳥は死に関心を持たないし、生きること、昆虫を捕まえたり、巣を作ったり、歌を歌ったり、ただ飛ぶことの喜びのために飛ぶことで、精一杯です。
彼らは死に関心がありません。
死が来るならそれでけっこう、彼らはおしまいです。
どうなっていくのかについての関心はありません。
彼らは刻々と生きているでしょう。
いつも死に関心を持っているのは、私たち人間です。
― J.クリシュナムルティ
私たち人間は、死を恐れます。
私の心の中にも死に対する恐れがあります。
「死を恐れずに生きることができたら・・・」と思いながらも、心の奥底では死に対する嫌悪の気持ちがやはりあります。
どんなに死を恐れても、死は必ずやってくる。
それは生あるものの運命。
死に対して「私は死にたくない」と言っても何も変わらない。
「もうちょっと待ってください」と言うことはできない。
ならば、死という現実から目を背けるのではなく、死そのものを真正面から受け入れることが大事なのではないか。
そうすれば死は敵ではなく、内なる友として、自分自身として、共に生きれるのではないかと、そう思うのです。
「死」というものを遠くにあるものとして見るのではなく、
ごくごく身近に、いつも自分のそばにあるものとして見ること。
死はいつも自分の元にあって、刻々と自分と共に歩んでいるということ。
死をあたり前のものとして、日常的なものとして、日々受け入れること。
死を避け、死から顔を背けるのではなく、死の面前で生きること。
毎日の中に死を取り入れ、死と共に歩むこと。
死もまた生の一部。
死なくして生はない。
生と死は同じ一つの流れのなかにあるもの。
生だけを善しとし、死を忌み嫌うのではなく、生も死も同じ価値あるものとして尊び、命の摂理として受け入れること。
死があり生があるのは、運命である。
夜と朝との決まりがあるのは、自然である。
そのように人間の力ではどうすることもできない点があるのが、
すべての万物の真相である。
生と死はこのようにひとつづきのものだから、
自分の生を善しと認めることは、
つまりは自分の死をも善しとしたことになる。
(生と死との分別にとらわれて死を厭うのは、正しくない)
むかしの真人は、死を憎むということを知らなかった。
生まれてきたからといって嬉しがるわけではなく、
死んでいくからといって嫌がるわけでもない。
悠然として去り、悠然として来るだけである。
(どうして生まれてきたのか)その始まりを知らず、
(死んでどうなるか)その終わりを知ろうともしない。
生命を受けてはそれを楽しみ、万事を忘れてそれをもとに返上する。
こういう境地を、
「心の分別で自然の道理をゆがめることはせず、人の賢さで自然の働きを助長することをしないもの」という。
― 荘子
散りゆく葉は、生であり、同時に死そのもの。
一枚の葉はこの世に生まれたときから、枯葉となって死んでいく運命を宿していた。
生まれた瞬間から、死に向かって歩いていた。
人間もまた同じ。
この世に生まれたときから、死に向かって歩いている。
私たちは、生であると同時に、死そのもの。
生と死は別個のものではなく、同じ命の流れのなかにあるもの。
それは一つの大きな河の流れ。
生と死は決して切り離すことはできない。
生と死は同じ一つのもの。
生と死は一本の糸でつながっていて、どこかで断ち切られるものではなく、
限りない環のなかで巡りゆくもの。
生あるものは死を持ち、死あるものは生を持ち、同じ一つの命の巡りのなかで存在し続けていくもの。
私たちは生であり、死そのもの。
生とは、死そのもの。
生とは、死であること。
“生とは別個の死”がやってくるのではなく、“生そのものである死”がやってくるということ。
死とは、生であること。
「生」と「死」という区別にとらわれず、同じ一つの命の流れにあるものとして受け入れ、生も死も善しとする心構えを持つことができれば、私たちは死に対して恐れを抱くことなく、真に自由な心で、解き放たれた心で、伸び伸びと生きることができるのではないか・・・
それは死への恐れを超えた心、死を全的に受け入れる心、日々死と共に歩む心・・・
死は実に大きな存在です。
心が恐怖から本当に自由でないかぎり、
死のとてつもない美しさと強さと生命力を理解する可能性はありません。
私が恐れているのは何でしょう。
死に怯えるとはどういう意味でしょう。
それは知っているものを、意識の内容を失うことですか。
執着、依存、取得したもの、権力、地位、不安―すべてを理解する。
それらがなくなることが本当の死なのです。
したがって生きることは死ぬことです。
愛は本質的に死ぬことです。自我に対する死なのです。
愛と死は伴います。
死は言います、『自由でありなさい、無頓着でありなさい、あなたは何も持っていけない』と。
愛は自由があるときにのみ存在します。
それは完全な自由の感覚、とてつもない強さ、生命力、精力です。
― J.クリシュナムルティ
自我も何も持たない一枚の葉が、恐れることなく死に向かって空に舞い、大地に落ちていくように、私たち人間も自我に囚われず、すべてを手放して生きれるなら、死を恐れずに活き活きとした活力と精力のなかで日々を過ごしていけるのではないでしょうか。
死を恐れない心、死の恐れに縛られない生。
伸び伸びと、活き活きと、恐れというしがらみから解き放たれた生。
丸裸で、空っぽで、何も持たず、しがみつかず、すべてを明け渡して散っていく枯葉のように・・・
一枚の葉っぱは、生まれてから死ぬまでのあいだ、ずっと裸で空っぽのまま・・・
何も持たず、何も抱えず、何も失うことなく死んでいく・・・
ずっと空っぽだから、死んでいくときも空っぽのまま。
ずっと裸だから、死んでいくときも裸のまま。
裸で空っぽだからあんなにも自由、何ものにもしがみついていないからあんなにも自由。
生に執着せず、抵抗せず、逆らわず、あるがままのすべてを受け入れ、悠然と生き、悠然と去っていく。
そのまっすぐな美しい姿。
とらわれのない自由な姿、清々しい姿、命の純粋な姿。
私たち人間もまた一枚の葉のように、生死にとらわれず、悠然と、自由に生きることができるのではないでしょうか。
生があり死があるのは必然なのだから、そのすべてをあるがままに受け入れること。
死を生の一部として、生そのものとして受け入れること。
死を含めた生のすべてをまっすぐに受け入れること。
本来死とは、恐れたり、怯えたり、嫌ったりするものではないということ。
それはごくごく日常的に、あたり前に、生まれたときから私たちと共にあるものだということ。
生あるものは、生まれたときからすでに死に向かって歩いているということ。
すべての生命は、死を抱き、死と共に生きているということ。
一瞬一瞬、刻々と、死と共に歩んでいるということ。
死は、今ここにある、ということ―
死というものを正面から自分の生のなかに取り入れてしまえば、死は人間の生の友にさえなってくれる。
死を前にした人がすぐ気がつくことは、自分が丸裸で、なんの支えもなく、死の前に立っている、ということである。現在の何を墓の向こうに持って行けるというのであろうか。一切の現実的なものへの執着がむなしいということに人は気づく。地位や金や名誉などはもちろんのこと、他人への愛着なども、それに固執してももはやどうにもならない。
であるから人は死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめ自ら心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身も軽々とする。そして人々との残るわずかな共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容の豊かさを増す。
自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときにこそ人は最も自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいこと、本当にしなければならないと思うことだけすればいい。そのときにこそ人は何の気がねもなく、その「生きた挙動」へ向かう。そのなかから驚くほど純粋な喜びが湧き上がりうる。
― 神谷美恵子
死という厳粛な現実が、人を悩ませ、恐れさせるものではなく、むしろ救い、励まし、勇気づけるものとなりますように。
そしてまた、死が友となることで、心を解き放ち、喜びや活力をもたらし、真に自由な生もたらしますように。
死を受け入れる心、自我に縛られない心が、愛を、喜びを、自由を、幸福をもたらしますように。
著者プロフィール
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10代の頃から人には言えない多くの苦しみを経験してきました。20代半ば、自身の人生の虚しさから生きる意味や価値をやみくもに追い求めて失敗。その大きな失敗は精神的な危機をもたらしました。その後、失敗や苦しみの経験を糧に自身の生き方を改めてきました。
「苦悩は魂を根源的に変える」。今はそう強く感じます。
現在、雪の多い北国の田舎でライターの仕事をしつつ、畑で野菜作りをし、自然の中で瞑想し、カラスたちと戯れ、家で古今東西の本を読み・・・そんな日々を送っています。自身の弱さや未熟さを自覚し、学びつつある毎日です。
野菜作りは川口由一さん流の自然農を実践しています。
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