夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
前編では「饗宴」で、愛は不死のための活動であると結論づけられました。
後編では、「パイドロス」に書かれている恋愛論を見ていきます。「パイドロス」は、全体として恋について書かれています。最初に3つの恋愛論が、次に弁論術が記されています。弁論術は、3つ目の恋愛論を、分割と統合(ディアレクティケー)により説明したことを確認するためのものです。
【ギリシャ哲学⑫】プラトニック・ラブ 後編
リュシアスの話
ソクラテスとパイドロスが、偶然に出会い、アテナイ郊外のイリソス川のほとりで語り合うことになりました。
ラブリーひよこ姫
まず、パイドロスがソクラテスに、リュシアスが記した話を語りました。リュシアスの話は「恋をしている者は精神錯乱の状態であり、冷静な判断ができないから避けるべきである。恋をすることは善なるものを求めるための妨げとなるから、避けるべき」というものでした。
ソクラテスの話
パイドロスにそそのかされ、ソクラテスはリュシアスの話よりも立派でひけのとらない長さの、別の話をする羽目になってしまいました。
世の中には、人を支配し導く2種類の力があります。1つは、生まれながらに持つ快楽への欲望です。もう1つは、最善のものを目指す、後天的な分別の力です。分別の心が、理性的に最善のものに導いて勝利を得る時、この勝利は「節制」によるのです。これに対し、欲望により盲目的に快楽に引き寄せられてしまう場合、「放縦」と呼ばれます。
盲目的な欲望が、正しいものに向かって進む分別に勝って、美の快楽に導かれ、様々な欲望と同化し、肉体の美しさを目指すことにより、この欲望は恋(エロス)と呼ばれるに至りました。
プラトンは、登場人物のソクラテスに上記のように発言させることにより、議論の対象は恋であること、恋とは欲求であることをはっきりさせていきます。さらに・・・
欲望に支配され、快楽の奴隷となっている者は、恋の相手を、できるだけ自身にとって快いものに仕立て上げようとします。自分に逆らわない者が快く、自分より力強い者、等しい力を持った者は不愉快なのです。だから恋する者は、愛人が自分より力強い場合でも、自分より劣った者に仕立て上げようとします。
そして、恋する者は嫉妬深くなります。愛人が、自分より立派な者になる多くの有益な交わりに嫉妬するからです。特に、英知を高める交わりを妨げると、嫉妬の害悪は最大になります。このように、愛人を自分の快いものにすることは、自分自身を最も毒することになります。
と、まとめて、別の話を語ることにより、ソクラテスはリュシアスの話を肯定して見せました。が、パイドロスが「本当はそうは思ってないんでしょ」と本当のことを話すように促しました。まったくその通りでした。真実ではないと思うことも肯定して見せる…ソクラテスのずる賢い駆け引きを、パイドロスが見抜いたのです。
プラトニック・ラブ
ピヨラテス
とソクラテスは言い、魂の本性、想起説、イデア論を含めた恋愛について話しはじめました。
恋は狂気
ソクラテスは恋による精神の錯乱を「狂気」という言葉に置き換えました。
「自分に恋する人が近くにいても、自分に恋しない者の言うことを聞くべきだ。というのは、恋をしている人は狂気であるが、恋しない人は正気だからだ」という主張は間違っています。実際、善きもののなかで最も偉大なものは、神から授かった狂気を通じて生まれてくるからです。
ギリシャの神々は、心が狂った時に立派なことを成し遂げています。が、正気の時は何もしていません。
神に憑かれ予言の力を用い、正しい道を教えた人たちも多くいます。また、あらゆるものに名前を付けた古人は、狂気(マニアー)を恥ずべきもの、非難すべきものとは考えていませんでした。というのは、神から授けられた狂気は、人から生まれる正気の分別より立派なものであると主張していたからです。そして、多くの神に対する儀式は狂気によってなされていました。
このように考えると、恋という狂気もまた、幸福になるため神々から授けられるのです。
魂の不生不死
狂気という単語を用いてリュシアスの話を否定した後、ソクラテスは魂の本性について話し始めました。
魂は不死です。常に動くものは不死だからです。一方、他のものを動かしたり、他のものにより動かされたりするものは、動くことをやめることがあり、この時、生きることをやめるのです。よって、自分自身を動かすものだけが、常に動き、他の動かされるものの動の源泉・始原となります。
始原は生じることがありません。すべて生じるものは始原から生じますが、始原そのものは、何ものからも生じないからです。始原が、生じることがないものであれば、必然的に滅びることもありません。
この自己自身を動かされることが、魂のもつ本来のあり方であり、本質なのです。つまり、魂には始原がなく、不生不死なのです。
魂の本来の姿(魂の3部分説)
ソクラテスは、ここで魂を3つの部分に分けました。2頭の馬と馭者です。これを魂の3部分論と言います。2頭の馬は「欲望」と「意思」を、馭者は「理性」を表しています。そして、神話を語ることにより、魂の想起説・3部分論について述べました。
魂の似姿を、「翼を持つ1組の馬、その手綱をとる翼を持った馭者が、一体になって働く力」と喩えることができます。神々の場合、その馬と馭者は、それ自身の性質も、その血筋からしても善きものばかりですが、神以外のものでは、善いものと悪いものが混ざり合っています。
人間の場合、馭者が手綱をとるのは2頭の馬で、その1頭の馬は美しく良い馬であるが、もの1頭は正反対の性格なのです。こうして、人間においては、馭者の仕事は、困難で厄介なものになるのです。
魂が翼を失うとき
魂は宇宙全体をめぐり歩きます。翼がある完全な魂は天高く舞い上がり、宇宙全体を支配します。魂が翼を失った時、何かにぶつかるまで下に落ちていきます。そして、土にぶつかったとき、土の要素からなる肉体に住み着きます。このとき、肉体と魂が結合し「生けるもの」と呼ばれます。すなわち、「死すべきもの」となったのです。
翼は、重いものを高い神々の住む方に連れていきます。だから、翼は肉体の中で、最も神にゆかりのある性質を持っています。神にゆかりのある性質は、善きもの、知なるもの、善なるものです。翼は、これらのものにより成長します。
逆に、醜いもの、悪いものは、神にゆかりのあるものと反対の性質をもち、魂の翼を衰退させ滅亡させます。
神々の行進・イデアについて
天界では、ゼウスが指揮者となり、翼ある馬車で、万物を秩序づけて進みます。12神のうち、炉を守る女神ヘスティアは神々の住処に留まり、それ以外の11神による11の部隊に整列された神々とダイモーン(神霊)の軍勢がこれに続きます。
そして饗宴や聖餐の時、これらの軍勢は天空の端まで登ります。神々の馬車は、この坂道を簡単に登っていきます。が、神々以外の馬車にとっては、苦難の道なのです。2頭の馬のうち、悪い方の馬が重荷になるからです。こうして魂には、激しい労苦と抗争が課せられるのです。魂は天空の端に登った時、天球の外側に出て、天空の回転に乗って、天の外の世界を観るのです。
天の外の領域に位置するものは、真の意味で「ある」ところの存在です。この存在は、色がなく、形がなく、触れることができません。魂を導く知性だけが、見ることのできる「実有」なのです(つまりイデアです)。これを見ることのできる魂は、正義、節制、知識です。
すべての「実有」を見ることができるのは、神々の魂だけです。
神以外の魂は、馬に邪魔されながらも、かろうじて「実有」を見ることができます。ある魂は、天外に出たり、天球の中に沈んだりして、かろうじて「実有」を目にするけれども、すべてを見たわけではありません。ある魂は、「実有」を見ようとはするが、馬を操り切れず、力尽きて、「実有」を見ることができません。「実有」を見ることによる浄化がなされないのです。
想起説による恋愛の肯定
人間の魂は、どの魂でも、生まれながらにして「実有」を見てきています。恋とは、人がこの世の美を見て、真実の美を想起し、翼を生じ、天空の外に上ろうとするけれども、それができないで、ただ上を眺めることです。このとき下界の事はなおざりになり、狂気に陥るのです。この狂気は、すべての神がかりの中で、狂っている者にとっても、狂気と共にいる者にとっても、最も善きものであり、最も善きものに由来するものなのです。美しい人を恋い慕う者が、この狂気を抱くとき「恋する人」になるのです。
神々の行進への参与が遠い昔になった者、堕落してしまった者は、美を見ても、美の本質に運ばれることはありません。だから、快楽に身をゆだねてしまいます。四つ足の動物のような方法で交尾し子を生もうとし、放縦になじみ、不自然な快楽を追いかけ、それを恐れもしなければ、恥じらいもしないのです。
神々の行進での経験がまだ新たなる者、多くの真実を十分に見た者は、美を見た時、まず、おおのきが身体を貫き、畏怖の情が黄泉がえるのです。ついで、目を通して受け入れた美により、身体が熱くなり、異常な汗と熱に捉えられるのです。
かつて見たことがある天球の外の「実有」を見るように、恋を受け入れ、これにより潤いが与えられ、喜びに満たされることになるのです。けれども、魂が相手から引き離され、潤いが枯渇する時、魂は荒れ狂い、もだえ苦しみます。が、記憶に残る相手の美しい面影は、魂に喜びを与えます。こうして、よろこびと苦しみが混じりあい、魂は不思議な感覚に襲われ、なすすべもなく狂い回り、狂気にさいなまれ、夜は眠ることができず、昼は1か所でじっとしていることができず、ただせつない憧れにかられて、美を持つその人を見ようと走っていくのです。
相手を見て愛の情念に身をうるおすと、魂は生気を取り戻し、苦悩から救われ、甘い快楽を味わうのです。だから、離ればなれになろうとしないし、誰をも、愛するその人より大切に思うようにはならないのです。そして、規則や体裁などをないがしろにし、甘んじて奴隷の身となり、恋焦がれている人の近くで夜を過ごそうとします。美をそなえた人こそは、魂の畏敬の的であり、最大の苦悩を癒してくれる医者なのです。
計算された恋は卑しいものだ。
ウィリアム・シェイクスピア
まとめ
【ギリシャ哲学⑫】プラトニック・ラブ 後編
プラトンの説く恋愛(プラトニック・ラブ)とは、美そのもの(美のイデア)の欲求です。恋愛相手に美を見出し、この美の中に天空のかなたに存在する美そのものを見出し、これを欲するのです。
また、プラトンは、恋による「欲望」は「意思」により抑えられ、結果として「理性」的な恋愛をすることができることを、魂の3部分説で説明しました。
著者プロフィール
- 理系大学を卒業し、製造業に携わっているにもかかわらず、西洋や東洋の思想に興味を持ち、コツコツと勉強しています。
引き寄せ2017.12.25パワーストーン① 酸化ケイ素系
チャレンジド1452017.11.22自由と役割について
生と死2017.11.22「本当に生きる」ということ
悟り2017.10.30ヘルメス思想について☆引き寄せの法則の基本思想