夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
ところがこうしたことを言うと、必ず大声で反論する“お利口さんな”人がいる。曰く、「それは敗北者の論理だ。グローバリズムが進展した現在、インターネット等のメディアを駆使するスキルを身につけなければ、その技術を身につけた者によって必ず搾取される。勝ち残りたければその技術を習得する以外に道は無い。また、そうしなければ今手にしている自分の地位すら保てはしない。先んずれば即ち人を制すのだ」
なるほど。確かに一理はあるのだろう。
では敢えて訊こう。そもそもグローバリズムに関わるスキルというのは、他人を搾取するために身につけるものなのだろうか。
蛙が見上げる井戸の空②
仮に僕が将来、そうした技術の習得が要求される地位を得たとしても、その技術で他人を搾取しようなどとは決して考えないだろう。別に僕が高潔な人間であると言いたいのではない。これはごく基本的な、ある意味では土着的とも言える倫理や品性の問題であって、僕と同じ考えを持つ人間などいくらでもいるはずだ。そうした感受性を持たないお利口さんは「いや、お前自身にその自覚がなくとも、そうしたスキルを身につけた時点ですでに搾取する側に回っているのだ」とでも言うのだろうが、果たしてそうだろうか。人間の在り方というのは、搾取する者とされる者の二種類しかありえず、一方であることを拒否すればもう一方になるしかないのだろうか。もしそれが真実なら、人類はその歴史にソクラテス・孔子・仏陀・キリストを決して持ち得なかっただろう。また、そうした連中を二千年以上たってなおリスペクトする人々も存在しないに違いない。その二分法は余りに短絡的で飛躍があり過ぎる。人間の現実の一面を切り取っているのは確かだろうが、それが現実の全てではない。人間がことほど左様に単純な存在であるはずはないのだ。
いま一つ訊く。グローバリズムに関わるスキルをいち早く習得し、先んじて人を制した勝者の人生が、果たして幸福と言えるだろうか。
なるほど、そうしたスキルに距離を置こうとする僕は、彼らの言う所の“敗北者”になるのかもしれない。だが、身の丈に合わぬ技術に四六時中追い立てられ、それを求めることに汲々とし、次々に発表されるツールのモデルチェンジを追いかけることに己の時間と金の大半を費やすことを強制され、朝から晩までディスプレーや端末に縛りつけられる人生は、果たして幸福なのだろうか。
訳の分からん電子記号の奴隷になるくらいなら、僕は迷わず鎖を免れた敗北者となることを選ぶ。他者を搾取せんとして鎖に繋がれてしまった勝者の人生が、貧しくとも眼の開いた敗者の人生より上等であるはずがない。より己の人生を祝福できるのは、グローバリズムの奴隷と冒頭の傍陽の父子の果たしてどちらであるだろう。
俗に「井の中の蛙」という。僕は大海を知らぬ蛙となることについては断固として拒否するが、大海を知った蛙が井戸に安住することを忌むものではない。むしろ、グローバリズムが進展するこの現代においては最も賢明な生き方の一つだろうと思う。
考えてみれば、蛙が住んでいるのが井戸であるというのは実に象徴的である。井戸は狭いが閉じてはいない。また井戸であるからには深いのだ。世界の広さを際限なく求めて行けば、確かに己の小ささは自覚できるだろう。だがその方法では自分が何者であるかはついに分からない。学生時代に世界の広さを求めてアジアを放浪した僕はそのことだけは知っている。もちろん放浪の経験は無駄ではなかったし、現在の僕の人格を構成する重要な要素である。「夢を叶える145」に投稿している文章も、その大半は大学時代の放浪にその根を持っているのだろう。その意味で、僕は若者が世界に目を向け、世界の広さを体験する事にはもろ手を挙げて賛成する。だが己が何者であるかということについてある程度の手応えを掴んだのは、僕自身の経験では、自分に許された環境をより深く掘り下げた時からだ。
広さは自分を教えてはくれない。教えてくれるのは、自分の手で掘った深さである。諺の蛙は己の小を知らないかもしれないが、己が何者であるかについては大海を回遊する魚よりも知っているのかもしれない。
グローバリズムの進展と並行して、アイデンティティ・クライシスの問題も叫ばれるようになった。この二つは緊密に結びついている。生のリアリティを欠いた電子空間で自分を際限なく拡散させてしまえば、手ごたえのある己の像など結びようがない。そう考えれば、この現代を生き抜く上で真に要求されるものとは、世界中の情報にアクセスする技能などではなく、世界の広さを経験した上で己の井戸を掘る技術であることに気付くだろう。非常に逆説的だが、いわゆる“デジタル・ネイティブ”世代の若者達は、もうとっくにそうしたことに気付いている。
目の前の他者や仕事を大切にし、それらとの関係性を深めてゆく志向を持たない限り、世界の広さが己の力となることは決して無い。世界中の情報をどれだけ集めてみたところで、「足ることを知る者が実は一番強いのだ」という真理への感受性を持てなければ、何も知らないのと同じなのだ。
僕が掘っている井戸はもちろん広くはない。が、見上げれば青空はもちろんお天道様もお月様も雲も星もちゃんと見える。その小さな空が、はるか昔にソクラテスや孔子や仏陀やキリストが仰ぎ見た空と少しも違わないことを、僕は確かに知っている。そしてその空はいつでも、僕が世界や宇宙に連なっていることを教えてくれるだろう。
蛙が見上げる井戸の空:完
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
親子2018.03.03正義のバトン(1/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
発想法2018.01.11帰って来い、ヨッパライ!(3/4)