夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
私たちはひとりになることを恐れ、友人もなく、どのような気晴らしもしないでいることを恐れます。私たちの心は絶えずあれこれの心配に捕らわれています。なぜなら、自分ひとりでいることに怯えているからです。
娯楽の増大、出版されている無数の本、スポーツ競技でいっぱいになった新聞・・・ 内面が空しく鈍くて平凡だから、私たちは関係や社会的なものを自分から逃避する手段に使います。寂しさから逃避するために、寺院や教会に駆け込んだり、着飾って社交行事に出席したり、テレビを見たり、ラジオを聴いたり、本を読むなどするのです。
ほとんどの人々は、どのようにひとりで生きるかを知らないから、結婚し、他の社会的関係を求めるのです。ひとりで生きなくてはならない、ということではありませんが、愛されたいから結婚したり、退屈なので我を忘れる手段として仕事や娯楽を使うなら、そのとき生の全体は、果てしない気晴らしの追求にほかならないと気づくでしょう。
ほとんどの人は、寂しさの、このとてつもない恐怖を乗り越えないのです。しかし、それは乗り越えなくては“なりません”。なぜなら、それを乗り越えてこそ、本当の宝があるからです。
J.クリシュナムルティ
寂しさを越えて生きる―孤独という強き光
あなたは「一人でいる時間」を大切にしていますか?寂しさや心の空しさ、孤独への不安から、一人でいることを避けてはいませんか?
私も以前までずっと、独りでいることを恐れていました。心の空しさ、何もない自分・・・ そんな自分から逃げるために、人とのつながりばかりを求め、それに執着していました。誰かとつながることで、私の心は満たされ、安心できたからです。でも、心の奥底にはずっと「孤独であることの不安」がありました。寂しさ、空しさ、一人になってしまう怖さ。そのため、不必要なまでに、人や集団のなかにつながりを求め、そこに身を浸していました。
そのような関係には、いつも心の苦しみ、痛み、葛藤、不安がつきまとっていました。それもそのはずです。自分の心を満たすために、人を求め、つながりを求めていたわけですから。そのつながりが終わってしまうのではないかという不安、自分が孤独に、空っぽになってしまうのではないかという恐れがいつもつきまとい、心は決して休まりませんでした。
心を満たし、安定させるために、人とのつながりを求めたのに、実はその「つながり」への欲求や孤独からの逃避そのものが、終わらない心の苦しみを作っていたのです。求めては失うことを恐れ、また求めては失うことを恐れ・・・ その繰り返し。心は、決して満たされない牢獄の中で、グルグルと回っているようでした。そのような日々の中で、私は自分の心を見つめ、少しずつ学んでいきました。
「寂しさから逃げても、寂しさはなくならない」
「心を満たすために他者に依存しても、苦痛や苦しみはなくならない」
「私は結局、自分の心を満たすために他者を利用していただけ」
「欲求、執着、依存は、決して心の自由をもたらさない」
「孤独や空しさから逃げようとする、自分自身を理解しなきゃいけない」
「逃避が終わることによってのみ、心の自由はある」
それまでの私は、自分の心を満たすために、寂しさから逃げるために、他者に依存していただけ。自分の心の安定を得るために、心の空しさを埋めるために、他者を“自分のもの”にして利用していただけ。それは愛のある人間関係ではなく、ただ自分のためのもの。そのような自分のための依存には、常に不安、苦痛、葛藤、苦しみがつきまとい、結局は必然的に悲しみや絶望に行きつく・・・
寂しい・・・
独りは嫌だ・・・
空しい自分は嫌だ・・・
何もない自分は嫌だ・・・
心の奥底には、そんな声が潜んでいました。それはまるで『千と千尋の神隠し』の“カオナシ”が、自分の寂しさから「寂しい・・・寂しい・・・」と口にして相手を求め「千、欲しい・・・千、欲しい・・・」と主人公の千(千尋)を所有しようと執着・依存していたように。人への依存、執着は、自分の心を満たすためのもの。そして自分の欲求が拒否されたり、自分の思いどおりにならないと分かると、怒りや憎しみが湧いてしまう。それは自己中心的な“エゴ”でしかない。
心の奥深くに必ず潜んでいる闇の部分・・・
ひたすらに『空しさ』を恐れて逃げようとする心・・・
ひたすら自分のために求めて求めて求め続ける心・・・
そんな自分の奥底にある心を、理解しなければいけない。そんな自分自身を理解しなければいけない。エゴ、自我、自分中心の心を終わらせなければならない。理解し、学び、それを超えなければならない。
そうでなければ、本当の心の自由も、幸せもない。真実の愛も知ることができない。
今の自分のままではだめ、変わらなければならない。もう古い自分を終わらせるとき。
私は少しずつ、自分の心を理解していきました。理解が深まれば深まるほど、私は一人でいる時間を大切にするようになりました。何ものにも、誰にも依存しないこと。どんなものにも執着しないこと。空しい心を満たそうと逃避しないこと。すると、まさに逃避しないということそのものが、自由をもたらすと気がつきました。自分の心の空しさから逃げないこと、むしろその空しさに留まり、そこに直面し続けること。
寂しさのうずきがのしかかってくるときには、走り去るという考えなどなしに、それに直面し、見つめなさい。走り去るなら、決して理解できないでしょうし、それはいつでも次の角であなたを待っているでしょう。ところが、寂しさを理解して、それを乗り越えるなら、そのときあなたは逃避の必要もなく、満足したり、楽しんだりしたいという欲求もないことに気づくでしょう。
それは寂しさを通り向け、それを理解するときに生じてくる自由の状態です。このひとりの状態では、もはや楽しみや安楽や満足を求めていないために、心理的には誰にも頼っていません。心が完全にひとりであるのは、そのときだけなのです。そして、そのような心だけが創造的なのです。というのも、あなたの心は、不滅で、滅びえない豊かさを知ってゆくからです。
J.クリシュナムルティ
自分自身を学び、心を理解し、真実に気づけば気づくほど、私は孤独を愛するようになりました。自分の心の安定のための人間関係は、混乱や苦痛をもたらすだけ。もうそういう無意味な関係は必要ない。そんな卑小な自分も要らない。
私は積極的に、孤独と静けさを求めるようになりました。人と過ごすよりも、自然の中で一人で過ごす時間のほうが大事になりました。静かに一人でいるほうが、明晰に自分を見つめることができ、人生に対する洞察が深まるからです。
また、逃避のために人とのつながりに執着し、何かの集団の中にいることよりも、ただ一人、自分自身と共にいるほうが、ずっと心は自由ではつらつとでき、そのような自分のほうがより創造的であり、より自分らしい生き方ができるということが分かりました。自分らしさが見つかれば見つかるほど、そんな自分に強い自信を持てるようになり、自分の生き方に確固とした信頼を持てるようにもなり、今まで以上に生き生きした心で生きれるようになりました。もう、誰かを、何かを求め、心を満たそうとする必要はない・・・ 結局、私の最良の友、なくてはならない友は、私自身以外にいなかったのです。
一人でいることと寂しいということは、ぜんぜん違うのだよ。
一人でいても、寂しくなく穏やかな心でいるようになるためには、
自分が最良の友と一緒だということを知ればよいのだ。
自分自身と一緒にいて心が安らぎ、自分を愛していれば、決して寂しいことはない。
人は自分自身を愛するようになったとき、初めて他人を愛することができる。
孤独の純粋さに触れるには、まず自分を愛することを学ばなければならない。
利己的にならずに、自分を愛することができれば、寂しさは存在しない。
自分に対する愛は、また、ほかのすべてのものに対する愛を生み出し、
聖なる「ワンネス」の世界に近づけてくれるのだ。
アメリカ・インディアン ストーキング・ウルフの言葉
孤独を生きることによって、本当の愛というものの意味も少しずつ分かってきました。「愛」があるためには「自分を求める」ということがあってはならない、つまり、エゴがあるところには愛は決してない。自分の欲、自己中心性がなくなり、自分を求めることがなくなり、心がまっさらになればなるほど、「生の全体」に対する愛が生まれてくる。
それは分け隔てのない、等しい愛。人にも、動物にも、虫にも、植物にも、生きとし生けるもの、存在するものすべてに対する等しい愛。自我性―エゴ―がなくなることによって、本当の愛が生まれてくる。
それは、「私心」という歪みや濁り、「自分―我」という偏りを一切挟まない、まっすぐな心です。そのような開かれた心があってのみ“本物のコミュニケーション”が生まれてくるのでしょう。
一人でいること―それは本当に自分自身と向き合うということ。自分の魂と向き合い、語り合うということ。“人生”が自分に求めているのは何なのか、魂が望んでいるのは何なのか・・・
本当の自分の声を知り、本当の自分の生き方を知ること。そのためには「一人でいること」が必要です。集団のなかにいては、心の声は聞こえません。誰かに、何かに依存していては、本当の自分が見えてきません。“内なる自分”と向き合わなければ、魂の声、生そのものの声が聞こえません。
同様に、寂しさを学び、心の空しさを理解しなければ、心はいつも逃げるばかりになってしまいます。空っぽの自分を満たすための逃避は、常に苦しみや痛みをもたらします。そのような心は“エゴ”という苦痛の鎖に縛られたままです。
本当に生き生きとした、創造的な豊かな生。幸せ、自由、愛。自分の人生、生き方に対する強い自信。揺るがない心。それが生まれるためには、“孤独を知る”ということ、“孤独を学ぶ”ということ、“一人で自分自身と向き合う”ということが必要なのです。そして、一人でいることから、新しい自分が生まれる。今まで知ることのなかった本当の自分の生、本当の自分の生き方、本当の自分自身の発見―
ときには、あなたたちの一人ひとりが孤独を知る。
いつも群れといっしょにはいられない。
そのときこそ、自分で自分にある生まれつきの美しさと強さを感じてほしい。
自分の心といっしょに生きなければならないから。
ほかのものではなく、自分が正しいと思うことを貫いてほしい。
自分がたった今いるところをよく見て、よく聞いて行動すること。
その行動に対して責任をもつこと。
その生き方のなかで自分と合っている仲間を見つけられれば、とてもうれしいこと。
けれど、それもあくまで自分が自分に忠実であってのことです。
一人になるとき、自分の心が静かであるためです。
コエン・エルカ
まとめ
寂しさを越えて生きる―孤独という強き光
より豊かに、伸び伸びとした心で生きれるよう、真実の自分自身に出会えるよう、自信に満ちた自分らしい生き方ができるよう、一人でいることを学び、一人でいることを愛してみてください。
著者プロフィール
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10代の頃から人には言えない多くの苦しみを経験してきました。20代半ば、自身の人生の虚しさから生きる意味や価値をやみくもに追い求めて失敗。その大きな失敗は精神的な危機をもたらしました。その後、失敗や苦しみの経験を糧に自身の生き方を改めてきました。
「苦悩は魂を根源的に変える」。今はそう強く感じます。
現在、雪の多い北国の田舎でライターの仕事をしつつ、畑で野菜作りをし、自然の中で瞑想し、カラスたちと戯れ、家で古今東西の本を読み・・・そんな日々を送っています。自身の弱さや未熟さを自覚し、学びつつある毎日です。
野菜作りは川口由一さん流の自然農を実践しています。
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