数年前の事。小学生だった長男がどうしても観たいと言うので(なぜそんなに観たいのかは謎)、映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」を二人で観に行った。
山本五十六その人を描く作品なので、派手な戦闘シーンなどは無かったが、主演の役所広司さんの冴えた演技が光る力作だった。
ミサイルが飛ぶ前に
山本長官の人物像にはとても興味を引かれた。日・独・伊三国同盟、対米戦に最も反対した人物が心ならずも開戦の火ぶたを切り、その真珠湾攻撃作戦で華々しい戦果を喧伝されながら、自身は「失敗」とみなしていたというあたりは非常にドラマチックである。が、僕がそれ以上に興味を引かれたのは、作品に描かれていた当時の日本国内の空気だ。
僕の同世代の人間は、学校やマスコミなどにこのように教えられてきた。すなわち「太平洋戦争は当時の陸海軍が国民の意思を無視して暴走し、敵国との実力差も考えずに起こした無謀なる戦争であり、日本国民は戦争遂行の目的のもとに軍部によって極度に抑圧され、大いなる被害を蒙った。まことに軍は愚かだった」。
しかし、作品中ではおおよそこのように描かれていた。「対米戦の無謀なることは山本五十六を始めとした海軍上層部の一部には十分に認識されており、それゆえ対米戦勃発の危険性のある日・独・伊三国同盟の締結に海軍は反対していた。しかし当時の国民はそうした海軍の態度を“弱腰”と非難し、マスコミも“バスに乗り遅れるな”をスローガンに国民感情を煽り立て、海軍はそうした世論に抗しきれず、結果的に同盟締結・対米戦に引きずり込まれた」
作品は山本五十六を主軸に据えているので、後者の言説がクローズアップされがちになることは確かだろうが、それにしてもこの二つの言説の違いはどういうことなのだろう。
僕と同世代の人間たちは大戦中の空気をこのように捉えているはずだ。つまり、「愚かで横暴な軍人と、その支配のもとで意思に反して戦争に駆り出され、協力と忍耐と犠牲を強いられた非力な国民」というわかりやすい図式である。が、どうやら実際はそんなに単純な話ではなかったらしい。
日露戦争終結後のポーツマス条約で、戦勝国の日本が獲得できた賠償が少なすぎるとして、露国との国力差に無知な民衆が(政府がそうした国力差の正確な情報を国民に隠したためでもあるが)日比谷焼打事件を起こし、それをマスコミが煽ったというのと同じ空気が大戦前後にもあったのだろう。今では「軍部の暴走」として単純に片づけられる“五・一五”“二・二六”も、そうした空気と世論を背景に、軍部の若手が民衆の意思を代表するという正義感をもって引き起こしたと考える方がより正確なのではないだろうか。いつの時代のどの国で起こるクーデターであっても、その成否はともかく、一定以上の民衆の支持がない所では引き起こすことなどそもそもできないからだ。
要するに、もし愚かだったとしたら、それは軍部や軍人、政治家たちだけではなかったという事だ。国民もマスコミも同様に愚かだったのである。
さて、そうするとここに大きな疑問が残る。僕は幼いころから「戦争の責任はまだ果たされていない」「戦争の反省がまだ済んでいない」と声高に叫ぶ“立派な大人”、すなわちマスコミ・有識者・先生方をたくさん見てきたが、では彼ら自身は戦争についての責任を果たし、反省しているのだろうか。少なくとも僕は「自分たちも当時は新聞や報道で国民世論を煽り、戦争に加担していた」というマスコミや、「当時は、不景気を戦争で解決してくれることを望んでいた」という一般人を一度も見たことがない。
当時の軍や天皇の責任を追及するのは結構だが(天皇の戦争責任の追及については個人的には疑問に思う)、それよりも当時の国民やマスコミが、どのような国内・国外状況の下でどのような世論を形成し、戦争を支持したのかを検証する方がはるかに重要ではなかろうか。国民や世論の支持がない所では政府も軍も戦争など起こせないのだし、そうした検証をしなければ、今後我々の世代が戦争に加担する可能性・危険性を学べないからだ。
もし今後、この国が軍事的な行動を取る選択肢を突きつけられた時、先の大戦に至った状況をきちんと学んでいなければ、「今回は多くの国民が支持しているのだ。太平洋戦争の時とは状況が違う」として、安易に軍事力の行使に走ってしまう恐れがある。無論、武力衝突がやむを得ない状況というのもあり得るだろうが、相当慎重な判断が要求されるのは言うまでもない。少なくとも「国民の多くが支持しているのだから」などという安易なポピュリズムで我々の子供たちに犠牲を強いるなど、絶対にあってはならない事だ。誰が悪い、悪かった、という以前に、昔も今も、国民の一定の支持のない所では戦争は起こせない、という単純な事実を我々は噛み締める必要がある。誰かに責任をなすりつけているうちは、先の大戦を真に教訓にしたなどとは言えるはずがない。
まさに今、日本海の向こう岸の将軍様が、ミサイルのボタンに指を掛け、世界中を翻弄しているのだ。もしかしたら我々は、軍事行動を選択せざるを得なくなるかもしれない。しかしその選択の根拠は、絶対にポピュリズムであってはならない。七十数年前の反省を生かせるか。まさに今、我々はこの問いを突き付けられているのだ。
「戦争の反省がまだ終わっていない」と叫ぶ人たちは今でも、特にマスコミの中に少なからずいるが、なるほど、終わらないわけである。そのように叫ぶ人たち自身が決してわが身を反省しないのだから。きっと永久に終わらないに違いない。
もう、ヤツらは放っておいた方がいい。大事なことは、我々がかつての過ちから現実的な教訓を引き出し、実践できるか。もし次の失敗をしてしまったら、きちんとその責任をわが事として自覚し、子孫のために伝えられるか。これ以外にはないだろう。
本当に怖いのは、ファシズムではない。ポピュリズムだ。ポピュリズムを前提としないファシズムなどあり得ないのだから。
ただし、ポピュリズムを警戒するとは、自分以外の他者を“愚かな大衆”と決めつけ、己一人を賢と位置付けることではない。これこそが、マスコミの一部のバカどもがやってきたことだ。そういう低俗なナルシズムで解決できたことがこれまでに一つでもあっただろうか。
“大衆”とは、己自身を含むのである。であれば、ポピュリズムを警戒するとは、己自身を警戒する、ということに他ならない。自分は今、大衆の一人として他者に責任をなすりつけていないか。一時の熱に浮かれて流されてはいないか。自分の頭で判断しているか。こうした自省を怠らないということなのだ。
ミサイルはいつ何時、我々の頭上に落ちてきても不思議はない。そうした中で己自身への警戒を忘れずにいられるか。“戦争の反省”の実現は、この一点にかかっている。試されているのは、今、この時だ。
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
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