夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
40年余りの人生を経て、僕はいまだに“モテ期”とやらを経験したことがない。ひょっとしたらあったのかもしれないが、もしそうなら気づかずにスルーしてしまったと思われる。妻との間も、「その分野で最初に評価してくれた人を、最後まで優先する」のをポリシーとする僕の事情で、“先着一名様”で売り切れてしまったという具合だ。女性との豊富な交際歴を踏まえて人生の伴侶を選んだ、というのとは大分違う。そんなわけだから、妻の人となりや好き嫌いくらいは承知しているつもりだが、女性一般の特性、いわゆる女ゴコロ・乙女ゴコロというのはよく分からないし、ましてやモテる男の心理などは皆目分からない。まあ、この期に及んで知る必要もなかろうが。
しかし、こんな僕にも何故か、“ナンパな季節”というべき時期があった。ストリートで女の子に声をかける、すなわち“ナンパ”を集中的にやった時期ということだ。
【社会学】ナンパに学ぶ「本気」のビジネス戦略
二十歳の時分である。当時、僕は二浪生だった。
今と違って当時の二浪生は、何というか、悲壮感が漂っていた。現在ほど子どもたちの進路にバリエーションがなかったこともあり、二浪生といえばすなわち“大学受験に二度落ちた奴”以外の何者でもなかった。二十歳の誕生日を参考書片手に迎える屈辱感も、恐らく今の二浪生よりずっと大きかっただろう。そんなわけで当時のそ奴ら(もちろん僕も含まれる)、特に男どもは自分一人の殻に閉じこもるか、あるいは二浪生同士でツルんで傷の舐め合いをするかの、どちらかのスタンスをとることが多かった。
浪人一年目。兄が東京の大学に通っていたこともあり、僕は兄のアパートから都内の予備校に通ったが、とても一口にはいえない経緯を経て受験に失敗した。二浪目は地元に帰って、田舎の予備校に入った。二浪生の心理はイヤというほど味わったが、僕にはこの一年が自分にとって特別な時間になるという、根拠のない予感があった。その一年を殻に閉じこもるとか、傷の舐め合いをするのに費やすのはもったいない。そう考えた僕は、二浪仲間とは縁を切って(実際に絶交宣言をした)、一浪生の友人をつくった。
高校生の頃、自分の通う高校に部がなかったことで、僕は地元のアマチュアのジムに入り、一人でボクシングをやっていた。試合でわずかばかりの実績はつくったが、そのことは意外に知られていたらしい。地元の予備校で僕の友人になってくれた一浪目の、つまり一歳年下の友人たちは、それぞれの高校で結構名を売った、つまりは有名人だった。僕はストリート・ファイトとは無縁の人間だが、彼らのように顔が広く、ヤンチャな連中ともそこそこつながりのあった者の耳には、リング上での実績(実際はほんのささやかなものに過ぎないが)で僕の名は相当の“猛者”として伝わっていたようだ。また浪人生としては一日の長があり、二年目からようやく本腰を入れた僕の模試の成績は予備校のクラスでもまず五本の指には入っていたから、一浪目の友人たちにしてみれば、「力でも頭でもかなわない」という、相当の誇張を伴う勘違いの対象となったのだろう。加えて、彼らのように一声かければ仲間・後輩の10人、20人くらいはすぐに“召集”できる友人を、僕はごく自然にリスペクトしていたので彼らのことは君づけで呼んでいたし、そもそもそういうキャラではないから兄貴風を吹かせるようなこともなかったのだが、これがかえって僕の評価を上げていたのかもしれない。彼らにとって、頭でも力でも敵わない(無論、勘違いだ)先輩が自分たちを対等に扱うというのは、彼らが拠って立つところの“漢”の何事かに、強く響くものがあったのだろう。僕たちはごくフランクに交流していたが、“男気”にアイデンティティの多くを預ける友人たちは、僕のことは必ず“山家さん”と呼んでくれた。それぞれの学校で幅を利かせていた連中から一目置かれていた浪人生活というのは、今になって振り返れば結構幸福な時期だったかもしれない。
そうした、エネルギー値の高い友人たちとの浪人生活は、楽しかった。予備校のラウンジで現代文の問題について激論を交わしたり、「21時までに英語の予習を終わらせようぜ。終わったらカラオケ」なんて約束し、自習室に籠って必死で勉強を片づけ、そのあと街に出てはっちゃける、ということもよくやった。誓っていうが、僕たちは決して馴れ合わなかったし、互いに怠惰に傾くことを許さなかった。ごく若い時分にあのような友人関係を持てたことは“奇跡”といって差し支えないのではないか。少なくとも、僕のごとき人間にとっては。
時効、ということを念頭に置いていうなら、僕たちはしばしば飲みにもでかけた。そんな折、夏のかかりくらいの時期だったと記憶しているが、4人で街にでると「女の子たちと飲みたいよね」という極めて健全な意見をだした奴がいた。まさか予備校の同じクラスの子に声をかけるはずもないので、必然的に“じゃあ、ナンパでもすっか”という運びとなる。僕を除く3人は、そこは地元での有名人だ。そうした経験も豊富だったようで、それぞれかつての“武勇伝”を語り出す。無論僕にそんな経験はなかったから、彼らの武勇伝を興味深く聞いたし、それほどの“猛者”ならさぞ軽々と女の子たちを引っ張ってくるのだろうと期待した。ところが、いざ女の子たちの集団を見つけると、“お前行け”とか“ああいうのはタイプじゃない”“後が面倒そうじゃね?”などとさっぱり煮え切らない。話の豪快さに比べ、その腰の引けた感じが何とも拍子抜けで、僕はだんだんイライラしてきた。「さっきまでの威勢のよさは何なんだよ。口ほどにもない」というと、実は本人たちが僕以上にそれを自覚していたようで、半ば憤然としながら「・・・じゃあ、山家さんが行ってくださいよ。俺たち、つづきますから」とのたまう。
「何か、話がズレてないか?」と抗議すると、「いや、だってさあ・・・ そんな言い方するなら、自分で行けばいい話じゃないスか」とのお答え。僕はケンカこそしないが、売られた勝負は買う。
「・・・分かったよ。俺の生き様、よく見とけ」
こうなればヤケクソだ。ナンパする女の子の良し悪しなんぞ分からないし、ゼイタクを言えたガラでもないので、最初に見つけた無難そうな女の子たちに的を定めた。どうせ慣れてないんだから、まわりくどいことをやっても仕方あるまい、と思い、スタスタと歩み寄る歩調のまま、
「俺たち、これから飲みに行くんだけど、よかったら一緒にどうだろう」
と声をかけてみた。まあ、緊張しなかったといえば嘘になる。
が、これが何と上手くいってしまった。僕たちは大変に予備校生らしい、有意義で実りある時間を過ごすことができたのだった。
それ以降、4人で飲みにでるときは、僕を先頭にナンパをしかけ、女の子たちを“調達”して店に入るのが半ば恒例となった。これにあたっては、友人たちが実に画期的なルールをつくってくれた。「山家さんが“切り込み隊長”で女の子をナンパしてきたら、呑み代は俺ら(僕以外のメンバー)持ち」というものだ。
二浪生という、お天道様の下を大手をふって歩けない立場であった僕は、“親不孝者”の分を弁え、両親からは僅かしか小遣いをもらっていなかった。そのため、友人たちと飲みにいく際、年長の僕が満足に払えない、という事態がしばしばあった。そうした僕の苦しい事情を受け、友人たちは下心と親切を足して二で割ったルールを設けてくれたのである。
彼らが、僕を後ろめたさから解放するためにそんな取り決めをつくったのか、あるいは単に僕に金がないことを利用していたのかは今もって不明である。金にはさほど困らない連中だった――親御さんから充分な小遣いをもらっていた、ということではなく、後輩たちに一声かければ“諭吉さん”の半分くらいはすぐに集めてしまえそうな奴らではあったし、一番ヤンチャな一人はパチンコ店の店長と懇意になり、懐がさびしくなると打ちにいってきっちり稼いできていた――から、後者であるともいえるが、女の子たちとの席で酒が入っても、必ず僕を立てていてくれたことから考えれば前者なのかもしれない。いずれにしろ、仮に僕を後ろめたさから救ってやるのが目的だったとしても、それをおっ被せるようなそぶりを決してみせない奴らだったのは確かだ。余談だが、一番ヤンチャだった“パチプロ”は、結果的に早稲田に入った。今は東京の広告代理店に入社し、“業界人”としてブイブイいわせている。
女の子を連れてくれば呑める、というのは僕にとって強力なモティベーションとなった。というより、ある時点からは如何にして僕の如き鈍な男が初対面の異性をこちら側に引き込むか、という思考そのものを快楽にしていたのかもしれない。さすがに、僕一人で複数の女の子を連れてくるのは不可能だ。そこで試行錯誤の末、組織的な戦略を幾通りか考案し、友人たちを指揮して実施した。今振り返ってみても、僕が実施した組織戦略の成功率は決して低くはなかっただろう。
立案と実施、そして振り返りを重ねる中で学んだことはいくつもある。
まず、声をかけるならこちらと同数の集団、というのが鉄則だ。人数にバラつきがあると、こちらか相手の側で、面白くない思いをするメンバーを必ず一人つくってしまう。例えばこちら4人に対して女の子が3人である場合、一番女の子慣れしていない僕があぶれれば良さそうなものだが、これが中々そうはならない。僕が意外にモテたということではなく、友人たちにしてみれば、僕が中心になって引っ張ってきた女の子たちを、僕を除いたメンバーで“占有”するのは躊躇われたのだろう。また年長の僕を差しおいてというのも、彼らの“男気”や“筋”とは相容れないものだったと思われる。女の子たちも、ナンパへの応じ方が洗練されているような子の場合、こちらの容姿とか女の子への振る舞い方以上に、“格”に敏感だったりする。最初に声をかけるのが僕であるという事実もさることながら、地元の有名人3人組がごく自然に僕に敬意を払ってくれるので、中心人物が僕であるというのは当然といえば当然の解釈だったろう。そうすると、女の子たちの中でも一目置かれるような子が、何故か僕とペアになることが多かった。さらに悪いことに、高校時代までの僕の交友範囲からは遠いタイプの人々(暴走族に片足を突っ込んでる奴とか、そうした男と関係の近い女の子たち)であればあるほど、何故か僕のことを知っていた。僕は近辺では一番偏差値の高い進学校に通っていたが、ある程度アウトローかつアナーキーな人々にとっては、“進学校に通う秀才(ちなみに僕は学年で常に下から10番以内にいた)のくせに、リングの上では鬼のように強い(しつこいようだが誤解だ)奴”という位置づけだったらしい。当の本人は、そんなこと全く知らなかったが。今なら“都市伝説”という便利な言葉で一蹴できるが、当時そんな概念はなかった。それで、女の子たちとの席で僕が“真実”を伝えようとすればするほど、却って謙遜としか受けとってもらえず、意図に反してますます“格”が上がってしまう、という若手芸人のコントみたいな訳の分からん状況に嵌まり込むことが少なくなかった。結果的に友人たちの一人が“犠牲”となる。
「食い物の怨みは恐ろしい」というが、女の子がらみの怨みも結構めんどくさい。友人たちの中に翌日以降も拗ねているとか、根に持つような小物はさすがにいなかったが、僕を含めていい目を見たメンバーは若干の後ろめたさがあるし、犠牲になった友人はむしろ僕らの後ろめたさが分かるので、いつも以上に磊落に振る舞おうとする。当然、どうにもちぐはぐな空気になってしまい、何とも後味の悪い思いをすることになる。
あぶれるのが女の子だともっと厄介だ。女心に疎い僕でも、その子にとってこうした事態が男以上に屈辱的だということくらいは想像がつく。周りの女の子たちもその子に気を遣うし、当の本人はもちろん、そうした空気にいたたまれなくなった誰かが“帰る”と言いだそうものなら、間違いなく全員がいなくなってしまう。僕の“集団戦略”は、対象となった女の子たちにリピートが効く、つまり、別の機会にまたご一緒できるという利点があったが、女の子の方にあぶれ者をつくってしまうと、まずリピートは効かなかった。対友人・対女の子でその後の関係性を良好に保ちたいなら、男女の人数は揃えるべし、というのは動かすべからざる鉄則だった。
次に、こちらが声をかけた後、女の子同士で相談させない、というのも大事なポイントだ。僕は少し離れたところから女の子4人組を的にすることを決めると、その場で友人たちそれぞれに“担当”を割り振った。“切り込み隊長”である僕が4人組の中心と思しき子に当るのはもちろんだが、二浪もしておいて視力が2.0から全く下がらない僕の目で残り三人の特徴を掴むと、友人たち一人一人に、三四郎君は赤いセーターの子、吾郎君はジーンズの子、などと的を分けた。こちらも友人たち同士で相談させると話がまとまらないので、指揮命令権を僕が掌握するというのは効率のいいやり方だったかもしれない。
女の子に接近する際、最も肝要なのは、手前で躊躇ったり立ち止まったりしないことだ。こちらが躊躇えばその煮え切らなさはそのまま相手に伝わってしまう。女の子たちに余計なことを考えさせたくないなら、すなわちこちらも余計なことを考えず、そのままの勢いでアタックをかけるべきだ。そして僕が一人の子に声をかけるやいなや、友人たちがそれぞれの“顧客”に一対一で話しかける。こちらの誘いにのるかどうかを女の子たち同士で相談させると、ポジティブな答えなどまず返ってこない。戦力を分散させ、各個で撃破を試みるに限る。4人中一人が「この彼女は“いいよ”って。行こうぜ」となれば、「おう、行こう行こう」となし崩し的に引き込めるのである。
さらに、ある程度押しても反応が鈍いと見れば、くどいことをせずにあっさり引きさがるのも大事だ。そのタイミングの判断は無論僕がするのだが、引き際の意外な淡白さというのは、女の子たちに強くはなくとも濃い印象として残るものらしい。そうすると、その場では無理でも別の機会に応じてくれることは珍しくなかった。一つには僕を除く三人は地元の有名人だったので、あっさり引きさがると“しつこいことをしなくても、次の相手を見つけられる人たち”というような、それなりの洗練度を持った集団として記憶されることもあったのだろう。
最後に、僕の“軍師”としての面目が最も炸裂したのは、“Xを含む集団”を相手にした時だったろう。“X”とは、トランプのババ抜きでいうところの、ババ。もっと具体的にいうなら、マスク・スタイルともにハイレベルな女の子集団の中に何故か一人含まれる、かけ離れてそうした要素に恵まれない女の子のことだ。女の子たちがなぜそうした集団をしばしば形成するのかは全くもって謎というほかないが、こうした集団を的にする場合、必ずこのXが鬼門となる。受験生の感覚でいえば偏差値70(早稲田や慶応に受かるレベル)、65(明治・立教レベル)といった女の子たちの中にいる、偏差値35(地方都市の名がついた私大レベル)のこのXほど厄介な存在はない。X以外の子たちはそもそも男の子に慣れているし、ナンパされる経験も少なくないから、友人たちのようにその地域での知名度やステータスの高い男子集団がソフトな出方をすれば、割合気軽に応じてくれることが多い。しかし、間違いなくXがぶち壊してくれる。しかも言うにこと欠いて“あんなのやめたほうがいいよ”“絶対下心持ってるって”などとのたまうのだ。「お前にだけは言われたくない!」「お前にだけは下心は持たないから安心しろ!」と絶叫したくなる理由で、他の女の子たちのテンションをクラッシュしてかかるのである。高偏差値のメンバーは、こうした場で常にXが疎外感を味わうことはよく知っているので、本人が強く否めば遠慮するのは、まあ、人情というものだろう。
このXの攻略法がどうにも思いつかなかったため、最初のうち、僕はこの手の集団には声をかけずにいた。が、常に考えてはいた。Xが面白くない思いをするから、他のハイレベルな女の子たちが遠慮するのだ。であれば、Xを“VIP”として扱う場を設定できれば、壁をぶち抜けるのではないか?
さて、ここで一人の男が登場する。普段、僕らとは別のグループに属していたが、時々ふらりとやってくる奴。この男については、当時僕らが彼につけていたニックネームにちなんで“A”と呼ぶこととする。
このA、何を考えているかわからないところのある奴だったが、ロジカルな思考に強く、殊に英語の成績はずば抜けていた。後に関西の超一流大に合格したのも、さもありなんといったところだ。しかしこの男に際立っていたのは、その容姿である。細身の筋肉質で、そうそうお目にかかれないくらいのイケメンだった。恐ろしくモテる奴だったから、女の子の扱いには相当長けていたが、それとは裏腹に“女”というものを肚の底から憎悪しているところがあった。セクシャリティは至ってノーマルな奴だったから、女嫌いというわけではない。しかし、この男の女の子の扱い方には、極端にいえば“復讐心”を感じさせるような何かがあった。
具体的には、特定の女の子にこれ以上ないくらいの心遣い・気遣いでエスコートしておきながら、決して甘い言葉をささやかないのだ。周囲の女の子にしてみれば、Aのごとき男にもてなされる子はもちろん嫉妬の対象となる。女の子集団の中での立場も、剣呑なものとならざるをえない。Aから交際を申し入れられればもちろん応じるし、関係性もはっきりするから立場を回復できるのだが、Aは決してそれを言わない。では自分に対して恋愛感情がないのか?と疑うが、周囲の子に対する態度と自分に向けられるそれとは明らかに違う。周囲から冷やかされもする。とうとう首に巻きついた真綿に耐えられなくなり、Aに迫ると、「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。誤解させてごめん」と言って、その後は口も利かなくなる。突き放された子の心の内や立場は推して知るべしだ。
では、女の子と交際はしないのかといえば、特定の彼女はいない代わりに体のお友達は何人かいたというから、到底僕の思考の及ぶ相手ではなかった。なにやら、村上春樹の小説にでてきそうな奴だ。
Aのサディズムの出所など想像もつかなかったが、同性相手には実に気分よく交わる男だったから、根っからのサディストというわけではなさそうだ。通常、女の子に酷い扱いをする男を僕は生理的に受けつけないのだが、Aに関してはそういう嫌悪感を持たなかった。それは、Aが甘い言葉で相手を弄び、その勘違いを嗤うような、時々出会う安っぽいゲス野郎とは違う根っこを持っていたからだろう。やることに感心はできなくとも、そのスタイルには一貫した哲学と潔癖さが感じられた。持っている世界は違うが、それなりの内容と深さを備えた男、というのが僕のAに対する位置づけだった。
大分前置きが長くなったが、このAがふらりと僕らと合流した時に、僕が“戦略”の概要と詳細を説明し、対“X”を引き受けてくれないか、と申し入れたのである。Aの人間性に一抹の危うさを感じていた友人たちからは、細かい説明はしない方がいい、と忠告されたが、僕は敢えて伝えた。この辺りは“こだわり”というものだ。僕は敵対する人間の無知や情報の欠如には容赦なくつけ込むが、味方のそこにつけ込んで利用することは決してない。もし相手がこちらの意図を理解できないなら、理解できる範囲で仕事を頼む。ましてや、Aのような高いインテリジェンスの持ち主にそうした出方をするのは不遜に過ぎる、というのが僕の感覚だ。
Aは僕の説明を無表情に聞いていたが、聞き終わると右の唇の端を吊りあげて言った。
「・・・面白そうじゃん」
「有難い。ただし一時のことだ。その後で追いこむのは遠慮してくれ」
そういうと、Aは実に爽やかに笑った。
「そんなことしないよ。だって、ナンパでしょ」
つくづく恐ろしい奴だ。
さらに恐ろしいのは、この日に“Xを含む集団”にでくわすことだ。新幹線が停まる街とはいえ、信州の田舎町に変りはない。渋谷や池袋とは違うのだ。特に相手を選ばないなら声をかける女の子集団くらいはそこそこ見つかるが、“Xを含む集団”はそもそも特殊なのである。Aを引き込んだところでそう都合よく、しかも五人組に出会えることはまずあるまい、と思っていたのだが、それがAの“魔力”というものなのだろう。“持ってる奴”、というのはそこが違う。
担当を振り分け、まずは僕が集団全体に声をかける。件のXが胡乱な目で振り向きざま、Aがさり気なく横に立ち、実に紳士的に話しかける。さすがだ。迷いというものが全くない。
僕も含め、他のメンバーもそれぞれの担当につくのだが、X以外の女の子たちが皆、XとAに驚いた表情を向ける。Aは高偏差値の子たちには目もくれず、自分の仕事に集中している。ややあって僕が、Aの方に親指を向けながら、担当の女の子に言った。
「あそこ、いい感じになってるしさ。行こうよ、みんなで」
「・・・うん、いいよ」
その子が大きな目をくるっと動かした意味は、すぐに理解できた。いつも疎外感を味わうXが、これほどのイケメンに言い寄られているのだ。“ここは応援してあげないと”。
Xは目を泳がせながら、しきりに指で耳の上の髪を後ろに掻きつけていたが、僕の相手の子に促されると躊躇いがちに頷いた。“XにはA”戦略の有効性が証明された瞬間だった。
ちなみに、店に入った後もAはXとペアを組むことになる。これが他のメンバーだったら不満タラタラとなるのだが、僕とAとの間に限っていえば、需要と供給はぴたりと一致していた。Aにとって、ハイレベル女子たちの視線をXへの嫉妬で歪ませることが、自身のサディズムを満たす愉悦であったようだ。
Aとはナンパ以外でも時々関わることがあったが、互いに必要以上に深入りしない、という暗黙の了解のようなものが自然にできていたように思う。Aは、当時の僕にとって非常に興味深い男だった。少し大げさにいえば、「禍々しいものとは、決して醜悪でも愚かでもなく、その正反対であったりする」という教訓は、Aを見ている中で導きだしたものだろう。
余談だが、いまだに深く印象されていることがある。“パチプロ”とAの二人に、別々の場面で同じことを、ほぼ同時期に言われたのだ。飲んだ帰りだったか、パチプロと二人になって歩いていた時に、ふと黙り込んだと思ったらこんなことを言った。
「・・・山家さんとだけは、戦りたくねえな」
Aについては状況は憶えていない。が、二人になった時にこんなことを言われた。
「僕は、あんただけは敵に回したいと思わない」
パチプロに言われるのは、まあ、それなりに想像するところはあるのだが、Aが何故そんなことを言ったのかは今もって分からない。もし機会があれば聞いてみたい気もするが、何となく、それは二人の間の暗黙のルールに反するようにも思われる。
浪人生時代のナンパの経験は、その後の僕に非常に役立った。例えば、大学入学後に一年休学し、アジアをバックパッカーとして放浪して歩くということをしたのだが、ネパールのある都市のホテル(バックパッカーが利用するにはやや高級な所)で半月に渡って宿泊費・飲食費ともに無料で済ませるということをやった。これはナンパで培った、指揮命令権を僕が握って集団戦略を実施した経験を、応用したものだ。僕がその都市を訪れたのが、旅行者が極端に少ない時期で、どの宿も宿泊客の確保で躍起になっていた。ぼくはたまたま泊まったホテルが気に入ってしばらく滞在しようと思ったのだが、少々高い。そこでホテルのオーナーと交渉し、僕が客を連れてきた分だけ、僕自身の宿代をディスカウントしてもらうようにしたのである。
旅行者用のレストランなどで出会う日本人バックパッカーの集団を、トランプ遊びなどの口実でホテルに連れてくれば、ほぼ例外なくその快適さに注目する。そこで彼らの目の前でオーナーと交渉し、また彼らが何人かで部屋をシェアすることで宿代を浮かせる。さらに“彼らも俺と同様に、他の客を連れてきたら、もうちょっとディスカウントしてやってくれ”と交渉するのである。その後、僕が指揮官となって集団的な客引き戦略を展開すると、常にそのホテルは満員状態となった。オーナーは大喜びし、僕の宿代・食事代はタダにするから、もっとこのホテルに滞在してくれ、という具合になり、その街で予想以上の長期滞在をするハメになってしまった。
Aを梃にして考案した“XにはA”戦略は、一般企業の営業マンをしていた時に大いに応用できた。客先に企画を提案する際、複数の客先担当者の中で、一人だけネガティブな反応を示す人がいて、そのために交渉が難航するような場面だ。そうした時、誰をどのように攻略するのか、という基本的構えが僕にあったのは、一つの強みだったかもしれない。実際の交渉では、ナンパの時とは違うアプローチをすることも多々あったが、基本戦略が僕の中にあるため、落ち着いて事態に対応できる分、他社の営業マンとは違った印象を持ってもらうことができたのだろう。こうした場面を伴う交渉での成約数に限っていえば、僕は同僚の営業マンたちよりも使える奴だったはずである。
また、規模の大きい上場企業に訪問する場合では、受付担当の女性とある程度親しくなっておくことは仕事を進める上で非常に有効だったが、二人の女性のうち一方が美人で、もう一方がそうした条件を持たないタイプの女性である場合、どちらにより接近するべきかという選択でも僕は迷わなかった。そうした出方は、当の女性たちにとって意表を突くものであったらしい。そのため、僕と僕が背負っている社名はすぐに憶えてもらえたし、彼女たちから引きだせる情報量は、他社の営業マンたちよりもずっと大きかっただろう。
価格交渉などでも、僕は強く押すことを基本的にしなかった。客先が拍子抜けするほどにあっさり提案そのものを引っこめたが、そのことで濃い印象を残していたらしい。そのため、その場での交渉は成立せずとも、他日の交渉で相手をこちらに引き込めることも少なくなかった。この辺りもナンパの“功徳”といっていい。
若干気が引けるが、友人たちのその後についてスルーしてしまうわけにはいくまい。二浪生であった僕と親しくしてくれた一浪生三人は、全員二浪した。彼らがそうなってしまった原因の一つとして、僕と関わったことがあることは、大きくはなくとも抜きがたい要素であるに違いない。
もしかしたら原因の核として、ナンパの位置づけが僕と友人たちの間で違っていた、ということがあげられるのではないか。
それまでナンパの経験がなかった僕にとってのそれは、いわば“修行”だった。仮にそれが言い過ぎだとしても、少なくとも“非日常の営み”であったことは確かだ。当時の僕は相当明確に、ナンパを己の思考力や実行力をリアルに試す場として位置づけていた。そうした意識を持っていたからこそ、最も思考力を要求される現代文が飛躍的に伸びたのである。ちなみに、思考力そのものが向上すれば、現代文以外の教科の力も底上げできる。つまり、トータルな学力がアップするのである。第一志望の早稲田は落としたが第二志望には受かったのは、ナンパの経験に拠るところが少なくない。そうした意味で、己の総合力を試される場としてナンパを捉えていた僕は、衝撃的お下劣芸で一世を風靡したアイドルグループ「あやまんジャパン」が、自分たちの営業活動を“試合”と称していたことには非常に共感できる。そう、僕にとってナンパとは、リングで戦うのと同じくらいの感覚で“試合”だったのだ。
しかし、友人たちはそうではない。高校生時分にそれなりにナンパを経験していた彼らにとって、それはあくまでも日常の延長に過ぎなかっただろう。だとすれば、彼らにとって僕と展開するナンパは、純粋な楽しみ以外のものではなかったのかもしれない。さらに、自分たちと同じことをやっている“先輩”が、予備校内で指折りの偏差値を出しているのを目の当たりにしていたのだ。“好きな時に好きなことを好きなようにやる”という僕のスタイルを、「あのやり方こそが正しいのだ」と勘違いしてしまったとしても、さほど不思議ではないのだろう。ナンパとは、かくも業深き営みなのである
“パチプロ”が結果的に早稲田に合格したのは先に述べたが、他の二人もそれぞれ二浪の後、立命館大、法政大に合格し、今は真っ当な仕事に就いている。予備校講師兼ライターなどというやくざな稼業の僕とは大違いだ。そうした事実をもって“結果オーライ”としてもらえるなら、これほど有難いことはない。
僕には経営者になるような資質があるとは到底思えないし、なりたいとも思わないが、もしコトのはずみでそのような立場になってしまうとしたら、考えることが一つある。もし僕が経営者になるなら、入社試験の最終選考で“ナンパ”を課題にだすだろう。“一定時間内に、初対面の異性を連れてこられるか”、ここを重要な判断基準とするのだ。次に、連れてきた相手の方を雑談の中でよく観察し、その方の人としての誠意の大きさを見極める。その大きさによって、入社志望者の是非を判断しようと思う。
ナンパは、その人間のトータルな力量を問われる営みだ。ここをクリアして、しかも真っ当な相手を連れてこられる奴なら、まず間違いあるまい。ただし、自分の交際相手とか友人を呼んでしまうこともあり得る。また、それなりの金銭を積めば、“プロ”の女性を準備することもできるだろう。もちろん、そんなことはさせない。志望者一人一人に“隠密”を張りつけて、厳密に審査するつもりだ。場合によっては、僕自身が隠密になるのも面白い。もしかしたら分を忘れてしゃしゃり出て、「何やってんだよ。いいか、俺の生き様よく見とけ!」などと年甲斐もないことをやってしまうかもしれないが。
たかがナンパ、されどナンパ。人生の一時期にこうしたことを集中的にやってみるのは、有意義な修行にこそなれ、決して無駄とはならないだろう。
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
親子2018.03.03正義のバトン(1/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
発想法2018.01.11帰って来い、ヨッパライ!(3/4)