夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
アリストテレス著「ニコマコス倫理学」は、アリストテレスが著したノート等を、息子のコニマコスが編集したものです。この本では「正しい生き方」が考察されています。
かなりややこしいのですが、ギリシャ哲学シリーズの一環として採り上げます。夢を叶えるための「正しい夢」の構築に役立ちます。この本に従い、最初に幸福について考察してみてください。
ニコマコス倫理学①「幸福について」
人間活動と善
あらゆる人間活動は「善」を求めています。
ラブリーひよこ姫
アリストテレスは、成果の方を「善」と主張しました。たとえば、馬具の製作という活動(それ自体が目的である活動)は騎馬に、騎馬などの軍事は統帥に従属しています。このような従属関係では、支配的な活動の方が望ましく、善は望ましいものであるからです。
善は政治的
活動のすべてを覆う目的、つまり、目的を目的ゆえに願望し、その他のものも願望する理由もこの目的のゆえであり、いかなるものを選ぶことも、結局はこれ以外のものを目的とするのではないという目的が存在します。なぜなら、この目的がなければ、欲求は空虚となってしまうからです。この目的こそが「善」(タガトン)、「最高善」(ト・アリスン)でなければなりません。
そして「善」の知識は、生活において大きな意味を持ちます。
ひよこ職人
従属の考え方からすると、このような「善」は政治的なものになります。「人間と呼ばれるものの善」は政治の究極目的でなければなりません。なぜなら、個人の善も国の善も同じものかもしれませんが、国の善のほうが大きく、より究極的だからです。
幸福を思索する者の条件
一般に「対象の素材に相応した程度の論述」がなされるなら、それで十分としなければなりません。「善きもの」「良きことがら」といっても、これらから派生する揺曳といった物を含んでいるからです。善から、かえって害悪が生じている例もあります。
へたれひよこ
だから、善の事柄は、善の性質の出発点から論じ、大雑把に真実を示し、おおよその事柄を、おおよその出発点から論じ、おおよその帰結に到達したなら、満足しなければなりません。
年少者は情念(バトス)に従いやすく、幸福論を聞いても徒労に終わり、利益がないと推定します。というのは、このような探求は知識ではなく、実践であるからです。情念のままに生き、何ものも情念のままに追求しようとする人々は無抑制的であり、知識は無益になってしまいます。理(ロゴス)に即して欲求し行為する人々にとってのみ、善に関する知識は有用なのです。
幸福とは・・・
どんな知識・選択も、何らかの善を欲求しています。
そして、政治の希求すべきものは「幸福」(エウダイモニア)です。
また、「よく生きている」(エウ・ゼーン)こと、「よくやっている」(エウ・ヴラッティン)ことを、「幸福にしている」(エウダイモネン)と同じ意味に捉えることもあります。
というわけで、幸福とは何かをさぐるためには、明確なことから出発しなければなりません。この明確なことには「我々にとって明らかな事柄」と「無条件で明らかな事柄」の2種類の意味があります。このうち「我々にとって明らかな事柄」から出発しなければなりません。政治的な事柄を聴講するためには、習慣における先導役を得ている必要があります。
「何なすべきか」ということが出発点であり、先導役に教えてもらうことで、それが明らかに知られているのであれば、なされるべき理由はもはや必要ではなくなります。習慣において先導役を得ている者は、根源的な端緒を既に理解し保持しているのです。
『最上なのは、みずからすべてを悟る人、
また、善き言葉に従う人も立派な者。
だが、自らを悟らず、他に聞くも
心にとどめないのは、せんなき輩』
ヘシオドス
快楽、富、名誉
主要な生活形態には、享楽的生活、政治的生活、観照的生活の3通りがあります。
- 享楽的生活。世間一般の最も低俗な人々が理解する善や幸福は快楽に他なりません。
- 政治的生活。名誉が善で幸福であると理解しているようです。政治的生活の目的は名誉にあるからですが、名誉は受ける者より与える者に依存しています。名誉を知恵あるものから、自分を知っている人々にわかる方法で、自分の卓越性(アテレー)・徳のゆえに与えられることを求めます。個人の政治的卓越性を「究極のもの」と考えるには、すこし距離がああります。というのは、本来の「善」とは、「何らか本人に固有な、取り去ることが難しいものでなければならない」から、我々の求めている「善」とは違うからです。
- 観照的な生活はここでは触れません。
つまり、快楽も富も名誉も、善や幸福ではないのです。
イデアについて
普遍的な善、すなわち善の形相(エイドス)、イデアなるものについて、考察してみましょう。
善(アガトン)は、本質の場合においても、質の場合においても、関係の場合においても語ることができます。が、「それ自身独立的に有るところのもの」、すなわち実体は、その本性上、関係に先立つものでなければなりません。関係とは、「有るもの」「存在するもの」の付帯性の位置にあるものだからです。
ドクターひよこ男爵
善(アガトン)は、「有」(オン)と同じだけ多くの方法で語られます。本質において、たとえば神や知性(ヌース)が、質においては卓越性が、量においては適度が、関係においては有用が、時間においては好機が、場所においては適住地が善だと語られています。しかし、これらに共通の一なる普遍なものとして「善」が存在することはありえないのです。
最高善
異なった分野での実践・技術では、善はそれぞれ異なったものとみなされます。医療では健康が、統帥では勝利が、建築では家屋が善です。すべての行動の目的が善なのです。富や健康など生活の目的はたくさんありますが、究極的な目的ではありません。これに対し、最高善は究極的な目的です。もし何らかの、ただ一つの究極的な目的が存在するのならば、それが我々が求めている「善」なのです。
それ自身を追求するひよこ
「いかなる場合も決して他のもののゆえには追求されないもの」は、「それ自身としても望ましいが、ときとして、他のもののために望ましいもの」よりも究極的です。したがって、「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることがないもの」は無条件的に究極的となります。
名誉、快楽、知(ヌース)などの卓越性・徳を選ぶのは、これら自身のゆえでもありますが、幸福のため、またはこれらによって幸福になれるだろうと考えたからです。だけど、たとえば名誉を得るために幸福になろうとする人はいません。総じて、幸福を幸福以外の理由により選ぶ人はいません。
自足という点で考察しても同様の結論が得られます。自足的なものとは、これだけで望ましい生活、何も欠如することがない生活をおこなえるものです。人間は本性上、市民社会的なものだから、究極的な善は自足的です。この自足的とは、自分だけにとって充分と言う意味ではなく、親しい人々や国の全市民が満足するという意味です。そして、幸福はあたかも自給的な性質を持っています。
さらに、幸福は善と同等ではありません。幸福は、最も望ましいものです。もし幸福が善の一種であるなら、少しでも他の善が加わることにより、より望ましいものとなってしまいます。
幸福こそ、究極的で、自足的で、あらゆる行動の目的となります。しかし、最高善(あらゆる行動の目的)を幸福であると説明することは、誰にも異論のない事柄を語ることにすぎません。「幸福とは何であるか」ということが判然と語られることが、本当に要望されるものでしょう。
このことは、人間特有の機能がどのようなものかを理解するとき、果たされるでしょう。生きている(ゼーン)ことは、植物などの生物にも共通します。感覚的な生は、馬や牛などの動物にも共通します。このように考えていくと、最後に残る物は、魂(プシュケー)の「ことわりを有する部分(ト・ロゴン・エコン)」の働きといった生です。この「ことわり」を有する部分は、「ことわり」に対して従順なものと、自ら「ことわり」を有し知性認識するものを含んでいます。また、こうした生(ゾーエ)も、これはデュミナスとエネルゲイアの2種の意味を持ちますが、我々が意味するものは、エネルゲイアです。
人々の所説との関係
考察においては、結論や、その前提を吟味するだけでなく、人々の所説も検討しなければなりません。
- 真の場合は人々の現実の所説が同じことを主張します。
- 偽の場合は、真なる諸説と不協和を示してきます。
善に関して
善には、
- 外的な善
- 魂に関する善
- 体に関する善
の三様があります。これに対し、人々は「魂に関する善」が最も優れた善、他のいずれにもまさる善としています。だから、我々の善の規定(善は行動の究極的目的である)は、人々の所説に適合し、妥当なものとなります。
我々の規定では、幸福とは「良く生きているひと」「よくやっているひと」を意味します。
夢見るニャンコ
一般に、幸福は「卓越性・徳」「知恵」と考えられています。そして、徳や知恵に快楽(または快楽が欠けていないこと)が伴ったもの、外的な好条件(エウエテーリア)が加わったものを幸福と考えます。このように考えると、我々の幸福の規定は適合しています。
「最高善を理解し、最高善を所有すること」と「最高善の使用」は、状態と活動の関係であり、大きな差があります。つまり、人生での善の達成者は、善を知っていることではなく、善の能力を正しい方法で働かせた者なのです。
また、幸福な人の生活は、幸福自身に基くので快適です。
快を楽しむということは、魂の中にある善に属します。そして、愛好の対象が、その人にとって快適なのです。たとえば、馬の好きな人にとっては馬が、芝居好きの人にとっては観劇が快適なのであり、同様にして、正しい行為は正義を愛する人にとって、卓越性に基づく働きは卓越性を愛する人にとって快適なのです。
多くの人の場合、様々な快適さが、お互いに争っています。これは、様々な快適さは、本性的に快適なものではないという事実に基づいています。
ですが、うるわしき事柄を愛する人々にとって、「本性的に快適であるもの」が快適であり、卓越性に即しての行為もまた快適なのです。だから、人々の生活の上に快楽が加わるのではなく、生活そのものの中に快楽が含まれるのです。こう考えると、幸福とは最も善く、最もうるわしく、最も快適なものです。
『最もうるわしきは他に優れて正しいこと、
最善なるは健やかなること、
最も楽しきは、みずからの愛するものを
首尾よく獲得する事』
デロスの銘
だけど、幸福は、外的な種々の善を必要とします。
うるわしい行為をなすことも、その手立てがない人には不可能であったり、難しいことであったりします。
多くの行為は、友や富や政治力を利用しています。また、生まれの良さ、良い子供たちや美しい容姿なども、幸福には必要である気がします。このような幸運も、幸福と同一視されるのです。
努力と運命
- 幸福は、学習や習慣などの訓練により得られるものなのでしょうか?
- それとも、神の定めや運(テュケー)によって与えられるものなのでしょうか?
もし、神々の人間への贈り物と考えられるべきものが存在するとすれば、幸福こそ、神が与えたものとするのが妥当です。人間が持つあらゆる物のなかで、神から与えられた物として最もふさわしいものが幸福でしょう。たとえ、幸福が神から与えられた物ではなく、卓越性や学習や訓練で得られうるものであるにしても、やはり神的なものに属すると考えられます。だけど、幸福は、広く万人に行きわたるべきものでもあります。事実、卓越性を備えられた人は、何らかの学習や心遣いにより幸福を獲得できたのです。
学習や心遣いにより幸福になった事は、運によって幸福になった事よりも優れています。幸福とは卓越性に即した魂の活動であり、それ以外の善は、幸福の必要条件であったり、助力的なもの、有用なものであるにすぎません。最高善を政治の目的としましたが、政治とは、市民を一定の善き人間に、うるわしき行動をおこなう人間にすることだからです。
卓越性を持たなければ幸福ではないという意味で、いかなる動物も幸福ではありません。また、子供も幸福ではありません。子供が幸福であると感じるのは、将来、卓越性を持ってほしいという期待が原因となっています。
結果か状態か?
栄華を極めたが、老年に及んで不幸に遭遇し死んでいった人を、誰も幸福であるとは言いません。このように考えると、誰しもが生存中に幸福であるということはなく、死んでから初めて幸福かどうか判定されます。幸福がこのようなものなら、幸福は一定の活動であるという規定に適合しません。
われわれは、人の最後を見届ける必要があります。このとき死者は、今、幸福なのではなく、これまで至福であったと呼ぶべきなのです。生きている人は、不運に見舞われることがあるから幸福ではない、というのはおかしいのです。
同一人物の運不運により、彼が幸福ではないとされるのはおかしいことなのです。同じ人を、幸福な人といったり、惨めな人といったりすることになってしまいます。
むしろ、幸福が運不運の結果に追随することが誤りなのです。運不運の中に「よく」と「あしく」があるのではなく、人間生活での運とは付加的なものであり、幸福を決定するのは、やはり卓越性に即した活動なのです。卓越性は、安定であり、持続的であり、幸福の規定に適合しています。
こう考えてくると、幸福な人とは、生涯にわたって、究極的な卓越性に即して活動している人、外的な善に充分恵まれている人と考えられます。
子孫や親しい人々の運不運が、我々の幸福に全く影響しないという主張は、あまりにも無情です。
でも、自分自身の不幸が、生活に重く影響する場合と軽い場合があります。同様に、親しい人の不幸に程度の差があるのなら、生きている間の不幸と死んでからの不幸にも差異があります。このような災厄の影響は、幸福な死人から至福を奪ったり、幸福ではない死者を幸福にしたりするほどの量も質もないでしょう。
尊ぶべきもの
ここで、幸福は「賞賛すべきもの」(エパイネトン)に属するのか、「尊ぶべきもの」(ティミオン)に属するのかを考察しておきます。いずれにせよ、これらが「善への可能性にとどまるもの」(デュミナス)ではないことは明らかです。
すべての賞賛すべきものは、何らかの性質を持ち、何ものかへの関係において、ある方法によって、あるものに「なる」存在です。善き人を、彼らの卓越性を賞賛することは、そこから生じる行為や成果のゆえなのです。力の強い人は、生まれつき強いという性質を持ち、強さを示すという方法により、強い力との関係において賞賛されるのです。
賞賛が関係づけから発生する結果に属するものであるなら、最高善に与えられるものは、賞賛ではなく、賞賛より優れたより善きものでなければなりません。神々を幸福なるものとして祝福するように、最も神的な善なる人も祝福されるのです。
知性と倫理
幸福が卓越性に即した魂の活動ならば、卓越性について考察する必要があります。この考察により、幸福に対する認識を一層深めることができます。この卓越性は、人間的な卓越性であり、しかも身体の卓越性ではなく、魂の卓越性です。
魂の一部は、「ことわり(ロゴス)」のない(アルゴンな)部分であり、また、ある部分は「ことわり」を有する(ロゴン・エコンの)部分です。魂の「ことわりのない部分」「無ロゴス的な部分」は、生物的な能力を司ります。人間の魂は、生物的なものと同じく無ロゴス的ですが、あたかもロゴスにあずかっているような部分をも含んでいます。
抑制のある人や無抑制的な人の事を考える場合、一方では「ことわり」を賞賛し、魂の「ことわりを有する部分」「有ロゴス的な部分」を賞賛しますが、他方で、人々の内部には「ことわり」と戦い、「ことわり」に抵抗する、本性上反ロゴス的なものがあります。
この反ロゴス的な欲情的部分を抑制する部分は、「ことわり」を分有しています。分有するということは、人々の言葉に聞き従う意味です。こう考えると、有ロゴス的な部分は、他者と「ことわり」を分有する部分と、自らのうちに「ことわり」を有する部分の2種があります。
卓越性もまた、魂の区分に基づいて、「知性的な卓越性(徳)」と「倫理的な卓越性(徳)」に区分されます。知恵や理解は知性的卓越性、寛容や節制は倫理的卓越性に属しています。
何人にも恩恵を施す者は、他人より愛されるよりも、多く己を愛す。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』
まとめ
ニコマコス倫理学①「幸福について」
アリストテレスは、最高善を「究極の目的」と、また「幸福を卓越性に即した、自足的で生涯にわてり持続的な活動」と考えました。この卓越性には、知性的なものと倫理的なものがあります。幸福についての議論は、倫理的卓越性についての議論の序説になります。
アリストテレス著 高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』岩波文庫・1章を要約
著者プロフィール
- 理系大学を卒業し、製造業に携わっているにもかかわらず、西洋や東洋の思想に興味を持ち、コツコツと勉強しています。
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