夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
障害者は目下、社会的にはマイノリティであり弱者と位置づけられる。しかしこれを別の視点から見れば、“ふつう”という、健常者にとっては自明の前提であるものを相対化する視点を持ち、他人の“痛み”に対する想像力を豊富に持つ人々ということもできるはずだ。“既存の発想を覆すアイディア”“他者への想像力”、こうしたものが、今ほど切実に求められた時代があっただろうか。であれば、こうした人々の存在は大きな社会的資産であろう。この貴重な資源を活用しない手はあるまい。
これはほんの思いつきだが、たとえば企業の“お客様相談窓口”等で、顧客からのクレーム対応を、いわゆる障害者が担当するのはどうだろう。
宮村さんにムチを打つ②
クレームというのは様々あるが、単なる嫌がらせや勘違いは別としても、顧客が訴えるのはほとんどの場合、“不都合”を経験したことそのものではない。“傷つけられた”“裏切られた”ことに対して怒りの声をあげるのである。しかし、わがままで子供じみたクレーマーとも思われたくはない。これが「プライドを傷つけられた」「ないがしろにされた」といった個人的感情を顧客が素直に口に出さない最大の理由だ。“クレーマー”だって、なりたくてそうなっているのではない。相手がこちらの真意を読みとってくれないので、エスカレートしてしまうだけなのだ。ゆえに、与えられたリスクマネジメントのマニュアルに沿って“仕事”をしたつもりになっている若手社員では顧客のホンネが分からず、問題の核心の周辺で表面的な対応に終始し、顧客をますます逆上させてしまうことが多い。こうした場面では、口には出せない痛みや憤りに対して敏感に想像力の働くメンバーが対応することがどうしても必要である。
不幸にも、現在の日本では健常者には理解されず、口にも出せない苦痛を多く抱えている障害者が多数存在することは想像に難くない。というより、99.9%の障害者がそのような状況にあるだろう。もちろんこれは国を挙げて改善するべき課題であるが、さしあたってこれを積極的に考えるなら、彼らであれば自身が日常的に困難を経験している分、クレーマーの真意をより迅速かつ的確に把握できるに違いない。またクレーマーの方でも、対応に出た相手が明らかに自分よりも現実的・具体的な忍耐を迫られている人間であることがわかれば、ひとまず冷静にはなれるだろう。その上で健常者の担当者よりも深い共感を示されれば、感情の鎮静が速やかになり、クレームの本質へのアプローチもより的確となるのではないだろうか。
あるいは新製品の開発要員として障害者を起用するのも面白い。
この場合、起用される側にも設計スキル等の専門知識・技能が要求されることとなるが、健常者が当たり前に捉えている“扱いやすさ”の意外な欠点や可能性について、そうした製品を健常者のようには扱えない者からの視点で指摘できるかもしれない。
日用品などで“バリアフリー”を謳う商品も多数出てきている現状で、試作した製品を障害者によるモニタリングで再検証し、再設計を重ねていくのは効率が悪い。だったら最初から設計に関わってもらえば相当の手間が省けるだけでなく、その分開発費用や製品単価も安く押さえられるはずである。このことは企業にとって大きな利益に結びつくだろう。
ここで挙げたのはほんの一例に過ぎない。掘り起こしてゆけば障害者だからこそ生み出せる利益や社会貢献は他にもあるはずだ。健常者と障害者が同じ職場で同じ業務を担当するというのはもちろん“平等”であるが、「君には取り立てて障害はなさそうだが、なかなか人の痛みのわかる人間だから、われわれ障害者の仕事を手伝ってもらおう」という逆ベクトルの形で行われるワークシェアリングや平等というのもあっていい。
また、そうしたことを実現するためには、施設や設備などハード面でのバリアフリーだけでなく、内面的な、ソフト面でのバリアフリーが不可欠となるだろう。
僕の大嫌いなTV番組に「2◯時間テレビ」があるが、そこで取り上げられる障害者は、ほぼ確実に“困難を抱えながらも夢に向かって頑張っている誠実で純粋な人物”というステレオタイプに押し込まれる。一見ポジティブな捉え方なので、異を唱える障害者は少ないのだろうが、もし僕が障害者であればこれほど迷惑な話はない。様々な困難を強いられる人物をこうした形でリスペクトするのは、実際のところ、通俗的なバランス感覚を盾にした、健常者のエクスキューズ以外の何物でもないのだ。そしてこれこそが最強の“内面的バリア”であることに、そろそろ気づくべきだろう。このバリアがあるうちは、“健常者が担当するのが望ましい業務を、障害者のために開放してやる”という発想から一歩も先へ進めない。いい加減、我々はこうした幼稚な発想を卒業する必要がある。こんな“神話”に頼っているようでは、いつまでたっても健常者と障害者は同じ地平に立てないのだ。もしシェイクスピアが「2◯時間テレビ」を視れば、きっと反吐を吐くだろう。
相手を自分と同じ人間として捉えるということは、明るく良い面と同等かそれ以上の闇や業を人間として抱えている己の在り方が、そのまま相手にも当てはまるということを、きちんと想像するということに他ならない。
チャレンジド145の中心人物である宮村孝博さんの書く文章は非常に素朴な透明感に満ちているが、だからといって宮村さん本人が正にそうした人物であるとは限らない。というより、この僕と同様に、非常に卑怯でせせこましく、薄汚いスケベ野郎であるからこそ、逆説的にピュアな文章が書けている可能性も大いにあるのだ。そう決めつけてかかるのはバカのやる事だが、少なくともそうした可能性があることを念頭に置かない限り、宮村さんと僕は同じ地平には立てない。“内面的なバリアフリー”を実現するには、こうした一面は避けて通れないのだ。
チャレンジド145に、僕はほんの申し訳程度の金額を送ったが、“チャリティ”でそうしたつもりはない。宮村さんの文章は、我々健常者を刺激してくれるし、我々が生きる社会をよい方向に導く可能性を豊かに持っている。つまり、社会や僕の役に立つ。しかし、宮村さんを一つの資源として思う存分活用するためには、彼の環境を整備する必要がある。僕が送った金額は、そのための“投資”だ。投資であるからには、もちろん金銭以外の形で回収する。プロジェクトの目標が達成できたら、それこそ容赦なく回収し、何倍もの利益を宮村さんから引き出すつもりだ。もちろん宮村さん自身も、そうした覚悟と責任感を持っていると信ずる。
障害者と健常者が同じ地平に立ち、互いに支え合うというのは、恐らくこういう事だろう。チャレンジド145でこうしたモデルケースを作れれば、これほどエキサイティングなことはない。
(宮村さんにムチを打つ:完)
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
親子2018.03.03正義のバトン(1/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
発想法2018.01.11帰って来い、ヨッパライ!(3/4)