夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
その心情を汲み取ることができないことで、誰かを怒らせたり傷つけたりしたような時、僕は当の相手や、その相手の支持者から間違いなく道徳的・倫理的な反省を迫られる。その頻度が余りに多かったため、恐らく僕は僕以外の人々の数倍は自己嫌悪と自己否定の傾きが強い人間になってしまったのだが、しかし、僕が誰かによって非常に立腹させられたり傷つけられた時、決して対称的な事態にはならない。
帰ってくる人(後編)
その相手に「アイツを怒らせたからチームの雰囲気が悪くなった」とか、「不満が出てくる前にもっと話を聞いておくべきだった」という具合の、“リスクマネジメントの不手際”という技術的な課題として位置づけられることはあっても、「アイツに対する思いやりが欠けていた」とか「不遜な態度を取ってしまった」というような、道徳的・倫理的課題として位置づけられることは無い。また、その支持者が倫理的反省を促す場面もおよそ見たことがない。これは僕とすればあまりに不公平な事態と感じられるので、どうにも肚に据えかねる場合は、極めて希なことながら、それを指摘することもある。
「お前が俺に同じことをされれば確実に道徳的反省と謝罪を迫るのに、何故お前が俺にやった場合のみそれが免除されるのか」
決まって驚いた顔をされるのがあまりに馬鹿馬鹿しいので、最近は「形だけでも頭を下げれば赦してやる」と言うようにしている。反省を迫ること自体がそもそも無駄だからだ。相手にしてみれば、まさか自分がその課題を求められるとは端から思っていない。僕という男は、そもそも共感関係が根本的に成立しない相手として位置付けられているらしい。普通の感覚をまるで持ち合わせていない人間と規定されている。そういう奴に、普通の人間の感覚が理解されないことで自分が傷つけられるのは不当であり許し難いが、普通じゃない奴の感覚を普通である自分が理解できないのは当たり前だ、という計算式が、僕の知らないところで何やら成立しているようだ。僕から指摘された相手が驚いた顔をするのは、決して共感できないマトモじゃない相手に、マトモな人間同士の共感を前提とした要求をされるからだろう。まさかお前にそれを言われるとは、という、やや失笑に近い感覚なのに違いない。
この事態は、他者にとっては当たり前であるらしいが、僕にとっては相当な理不尽だ。そうした経験を繰り返した結果なのか、僕の“他者”の定義には、やや特殊なものが形成された。無論定義は一つではないし、他者の在り方にも様々なヴァリエーションやカテゴリーがあるが、カテゴライズ以前の結構有力なものとして、こういうのがある。
―――俺には際限なく道徳的・倫理的反省を要求するが、俺に対してはそうする義務を決して認めない存在―――
こんな視点をトリカブトの根のようにして持っていれば、対人感覚が標準から外れていくのは当たり前だ。外れればその分変わり者になるわけで、変わり者となれば余計に他者との共感関係が希薄なものとなっていく。いずれが先かは、もはや知りようもない。
こういう奴は、極端なペシミストかサディストになっても不思議はないと思われるが、恐らくは幸いにも、僕はそうした人間にはなっていない。なってしまった方がはるかに楽に生きられたのかもしれないが、幼い頃、日曜の朝に父の姿が引き戸の向こうに必ずあったという事実の積み重ねが、ペシミズムやサディズムからギリギリのところで僕を隔てた。というより、父が僕の中に点した一穂の灯の在処を確かめるためにこそ、あるいは見失いそうになったその光を探すためにこそ、僕は文章を書いているのかもしれない。少々うんざりもするが。
いずれにしても、文章を書くことで己の奥底に潜む一筋の光を思い出そうとし続ける程度には、僕は他者に対する根源的な信頼を失わずに済んだ。また、そのことが僕が得られる幸福感の根拠ともなっているに違いない。ただし、言わずもがなだが、そのようにして文章を書くことそのものが幸福だとまでは、僕は未だに思えない。時々、僕に文章が“書ける”(僕自身には“書ける”と言えるほどの自信も自覚も無いが)ことや、賞をもらったりすることを少なからず羨んだり、甚だしきに至っては嫉妬に近い感情を持ったりする人(第三者からそのように教えてもらい、注意を促されたりする)に出会うが、これほど不条理に感ずることも無い。コンテストで賞の選考対象になる程度には文章を書いていないと己が人間であることの証明を己自身に示せない奴と、そんなことをせずとも己が間違いなく人間であることに安住できる者と、どちらがより幸福であるか。下らな過ぎて論ずる気にもなれない。
もし将来、長男を始めとする僕の息子達が、僕の如き父親にも孝行をしようと思ってくれるなら、僕が父から受け継いだ父親としての在り方を、自分達の子供にも体現してやって欲しい。
“お父さんは必ず帰ってくる”
そういう存在でいてやって欲しい。
“一穂の灯”―――これを持つ人間は、恐らく決定的な不幸に陥ることはない。残業や付き合いを父親としての義務などとは思ってくれるな。それは多くの場合、自分への言い訳にしかならないのだから。自分の子供の胸に小さな光を点してやること。これこそがお前たちの父親への最大の孝行だ。
パートナーや守るべき者たちに対して、“必ず帰ってくる人”であること。“必ずそこにいる人”であり続けること。たかだかの地位や財産よりも、この灯がずっと大切な何かであると肝に銘じ、それを忘れずに生きられるなら、お前達は合格だ。
帰ってくる人:完
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
親子2018.03.03正義のバトン(1/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
発想法2018.01.11帰って来い、ヨッパライ!(3/4)