夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
中国の荘子が言ったとされることわざに「井の中の蛙大海を知らず」があります。
井の中のカメさん
つまり「井戸の中に住む蛙に、海の話をしても通じないのは、蛙が井戸という狭い場所にこだわっているから」ということです。このことわざは、20世紀初頭には英訳され、The frog in the well knows nothing of the great ocean. として広まりました。
「井の中の蛙、大海を知るべし!」というような固い信念で、壮大な生き方を貫いた人物がいます。幕末を生き抜いた坂本龍馬です。坂本龍馬は広大な世界に目を向けて、井の中の蛙と同様の鎖国状態であった徳川幕府を倒幕して、近代日本国家への礎を築いた人です。
今回は、坂本龍馬の幅広い視野と壮大な志しの実現について追求します。
【坂本龍馬】視野拡大とチャレンジスピリット☆竜馬の5つの骨
「井の中の蛙」の真意とは?
「井の中の蛙大海を知らず」は、視野や見識が狭い考え方を戒めることわざです。井戸のような狭い範囲で得られた価値観や経験値は、井戸から出た広い世界では、まったく通用しないのです。
広い世界(大海)と比べたら、狭い範囲で得られる知識や価値観はごく限られており、環境変化や競争相手に対しての順応力や適応力も劣ってしまいます。狭い範囲に居座ることは、一見幸福そうと思われがちですが、“自己満足”や“高慢”や“うぬぼれ”となって、夢や向上心を失い、成長を阻害してしまいます。
夢や志しを持って、それを実現させるためには、もっともっと広い世界(大海)へ出て、自分よりも見識の広い人たちと交流し、自分の視野を拡げ、経験を積み上げることが必要です。
日本国が「井の中の蛙」となっていた鎖国時代
「鎖国時代」とは、江戸幕府の1639年(寛永16年)から1854年(嘉永7年)の、約215年の期間を指します。鎖国とは、キリスト教を恐れた江戸幕府が、キリスト教と日本人の出入国を禁止し、外国との国交や貿易を制限・統制した対外政策です。
鎖国は、日本の世界からの孤立状態を指し、まさに「井の中の蛙」状態だったのです。外交は、朝鮮国及び琉球王国との通信、中国及びオランダとの通商関係だけに限定されていました。しかも、中国とオランダだけと通商ができたのは、長崎の出島からだけでした。
ピヨリー
鎖国令は廃止されたのです。
このペリー率いる軍艦4隻の内2隻が蒸気船であり、日本人が初めて目にする軍艦であり、多くの人たちが、日本は「井の中の蛙大海を知らず!」という状態であったことに、あらためて気がつくのです。
この幕末から明治維新に至る、近代国家への改革の主導者の一人が「坂本龍馬」なのです。
坂本竜馬の「大海を知るべし!」とは?
坂本龍馬といえば、幕末の土佐藩出身の浪人として有名ですが、いったい何をした人でしょうか?
坂本龍馬の偉業を一言でいうなら「井の中の蛙(鎖国)の江戸幕府を倒幕し、日本の近代国家・近代政府への礎を築いた」です。
28歳で土佐藩を脱藩して浪人の身分であった坂本龍馬は、鎖国で「井の中の蛙の状態」である江戸幕府を倒し、世界と渡り合える近代国家を創出するという、強くて壮大な夢・志しを持っていたのです。
まず、江戸幕府と対抗できる勢力をつくるために、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。そして、薩長同盟による武力での倒幕に反対する坂本龍馬は、平和的な倒幕である「大政奉還」という妙策を土佐藩に提案します。この巧妙な策略である「大政奉還」は、土佐藩から徳川幕府に進言され、将軍・慶喜はこれを受け入れて、平和的で血を流さない江戸幕府の消滅に至るのです。さらに坂本龍馬は、新政府が進むべき方向性と取るべき政策を「船中八策」によって指し示したのでした。
一介の浪人に過ぎない坂本龍馬が、これだけの大きな偉業を成し遂げられたのは、他の人はスケールの異なる価値観や考え方を持っていたからにほかなりません。
坂本ぴよ馬
坂本龍馬の生い立ちと環境
【少年期】
龍馬は、1835年(天保6年)11月15日に、土佐藩の下級武士の5人兄妹の末っ子として生まれます。12歳から楠山塾に通い始めるが、すぐに止めてしまい、この時期に母・幸が死亡します。
世界の話を聞く
2番目の母・伊予の教育を受ながら、伊予の最初の嫁ぎ先であった川島家へ頻繁に遊びに行き、“ヨーロッパ”という異名を持つ「川島猪三郎」から世界中の話を聞くことで、視野や見識を拡げていきます。
【青年期】
ペリーの黒船来航
龍馬が19歳になった1853年(嘉永6年)に、江戸三大道場の一つとされた、“北辰一刀流”の「千葉定吉道場」へ入門して、剣術修行を積み重ねます。この年に、アメリカのペリー将軍が率いる「黒船軍艦」4隻の浦賀来航という大事件が起きます。
攘夷論の間違いと世界観
ペリー来航で品川の沿岸警備に動員された龍馬は、「戦争になれば夷人(外国人)の首を討ち取る」という「攘夷論」に捉われていました。「攘夷論」とは、幕末期に広まった考え方で、外国の夷人を追い払って、西欧列強の外国人を、実力行使で押しのけようとする排外思想のことです。
しかし、1年後に土佐藩に帰ってきた龍馬は、絵師の「河田小龍」の話を聞いて、「攘夷論」が“井の中の蛙的な大海を知らない発想”であり間違いであることを悟ります。河田小龍は、絵師でありながら海外事情に詳しく、「世界と対等に渡り合うためには、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だ」と教えられたのです。
河田小龍は、同じ土佐藩出身でアメリカへ漂流して教育を受けた後に、11年ぶりに帰国した「ジョン万次郎」から聞いた外国事情を「漂巽記略」という本にまとめた、外国事情に精通した数少ない人物だったのです。
【壮年期】
脱藩と長州藩との繋がり
27歳になった龍馬は、1861年(文久元年)に長州藩(山口県萩)の吉田松陰塾員の「久坂玄瑞」を訪ねます。玄瑞から「いまや大名も公卿も頼りにならない。これからは草莽の志のある人々が立ち上がらなければいけない」と教えられ、翌年に土佐へ帰り“脱藩”をしてしまうのです。
勝海舟・西郷隆盛との出会い
28歳で脱藩した龍馬は、1862年(文久2年)に長州藩に出向き、さらにこの年の秋には江戸へ出向いて、幕府の軍艦奉行であった「勝海舟」の弟子になります。幕府から大坂湾周辺の海防を命ぜられた勝海舟は、神戸に海軍操練所を建設し私塾を開講します。勝海舟に同行した龍馬は、私塾に入門して海軍としての修業を積んでいきます。1864年(元治元年)には、勝海舟の使者として、薩摩藩の「西郷隆盛」と面会しています。
亀山社中・海援隊の結成
1865年(慶応元年)の、幕府機関である神戸海軍操練所や勝海舟の私塾などの閉鎖に伴い、行き場を失った坂本龍馬を中心とする脱藩浪人たちは、長崎の亀山に薩摩藩の庇護をうけながら「亀山社中」という商社を結成します。後に「海援隊」と改称されます。
亀山社中(海援隊)は、グラバー商会と銃器などの貿易取引を行い、交易仲介や物資運搬などで利益を得ながら、海運業・海軍・航海術の修業機関としての役割を併せ持つ特異な組織で、国事にも奔走しながら関わっていたのです。なお、これが日本初の株式会社とも言われています。
薩長同盟の成功
坂本龍馬は1866年(慶応2年)に、この海援隊の組織を使ってそれまで仲の悪かった薩摩藩と長州藩との同盟を成功させ、幕府に対抗できる勢力を誕生させたのです。この「薩長同盟」を画策した龍馬は幕府から危険人物としてマークされ、命を狙われるようになります。
この薩長同盟成立から2日後に「寺田屋事件」が起こります。京都伏見の寺田屋に宿泊していた龍馬は、伏見奉行所の役人に踏み込まれ、両手の指に深手を負った状態ながら、危機一髪で薩摩藩邸に逃げ込んで難を逃れることができます。
船中八策から大政奉還へ
龍馬の活躍に目を付けたのが、薩摩藩と長州藩に後れをとっていた土佐藩です。1867年(慶応3年)に、土佐藩の参政であった「後藤象二郎」は、長崎で龍馬と会談を行います。倒幕を目論む龍馬は、この会談で土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤象二郎と手を結ぶことで土佐藩に復帰します。
1867年(慶応3年)の6月頃には、薩長連合は武力行使による討幕を考えはじめていましたが、武力での倒幕を避けたい土佐藩は、善処策を龍馬に打診してきたのです。そこで龍馬は、土佐藩船の「夕顔丸」の船中で「大政奉還を盛り込んだ8つの策である船中八策」を提案したのです。
この「船中八策」による後藤の進言を受けた前・土佐藩主「山内容堂」が、15代将軍の徳川慶喜に「大政奉還」を建白し、これを慶喜が受け入れることで、1867年(慶応3年)の10月14日に政権を朝廷に奉還したのです。ペリー来航から14年後、坂本龍馬が33歳の時でした。
坂本龍馬の暗殺
坂本龍馬は、大政奉還の日(1867年10月14日)から、わずか1か月後の11月15日に京都の近江屋で暗殺されます。いみじくもこの11月15日は、坂本龍馬の33歳の誕生日。
13歳の頃に親戚の川島家で、はじめて「ヨーロッパ」の話を聞いてから20年後、ペリー来航を眼前にしてから14年後の短くて太い人生だったと言えます。
坂本龍馬の優れた人格の骨組み
坂本龍馬は「井の中の蛙という安住が大嫌いな人」であり、「絶えず大海(壮大な未来)を目指した人」だといえます。
坂本龍馬の優れた人格は、5つの骨組みで構成されています。
坂本竜馬の人格の5つの骨組
- 井の中の蛙、大海を知るべし
- 「世界へ出るべき」という壮大で明確なビジョン
- 固定概念にとらわれない幅広い見識と経験
- 幅広い優れた人脈の形成
- 不可能(失敗)を可能(成功)に導く行動力
幕末維新を先導した坂本龍馬(竜馬)を主人公とする小説に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」があります。NHK大河ドラマや、民放各局でもテレビドラマ化されてきました。
司馬遼太郎は坂本龍馬を称して「維新の奇跡」と絶賛しました。土佐藩の下級武士の5人兄妹の末っ子(次男)として生まれながらも、その飛び抜けた行動力と人間的魅力で「維新の主役」となり、絶対不可能とされた「薩長連合」を実現させ、誰も血を流さない「大政奉還」という手段によって倒幕を成し遂げたのです。
世の人は我を何とも言わば言え
我が成す事は我のみぞ知る
坂本龍馬
まとめ
【坂本龍馬】視野拡大とチャレンジスピリット
坂本龍馬の人格の5つの骨組
- 井の中の蛙大海を知るべし
- 世界へ出るべきという壮大で明確なビジョン
- 固定概念にとらわれない幅広い見識と経験
- 幅広い優れた人脈の形成
- 不可能(失敗)を可能(成功)に導く行動力
著者プロフィール
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定年退職して無職浪人生活を送る大阪在住の男性です。
未来がどんどん少なくなって過去だけが蓄積されていきます。
有り余る時間を活用して、元気になれる!勇気がもらえる!ような
記事が書けるよう日々奮闘しています。
「未来呼人(みらいよびと)」は、わたしが未来を呼べる人ではなく、
夢ある未来を呼びたいなぁ!という願望を込めて命名したもの。
世の中の多くの人々から元気と勇気をもらいながら、わたしも
元気と勇気を発信して共有していきたいと願っております。