夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
禅の教科書に「十牛図」があります。
12世紀後半、北宋の時代に廓庵禅師によって作られました。
【真の自己探求】十牛図③
徳力富吉郎 画
8枚目の絵である人牛俱忘から、10枚目の絵である入鄽垂手までは、実は同じ状態が描かれています。この3枚の絵が、悟りの境地なのです。禅の達人が、習字で紙にマルだけを書いた意味深な絵というか文字が、禅寺には飾られていますね。これは、十牛図の「人牛俱忘」が描かれているのです。まれに、三角形や四角形のもあります。禅問答並みに意味不明ですね。
第八 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
凡情脱落し、聖意皆な空ず。 有仏の処、遨遊することを用いず、無仏の処急に須く走過すべし。 両頭に著らざれば、千眼も窺い難し。 百鳥花を含むも、一場のモラ。
頌うて曰う
鞭索人牛尽く空に属す。 碧天寥廓として信通じ難し。 紅炉焔上争か雪を容れん。 此に到って方に能く祖宗に合う。
(現代語訳)
第八に人も牛もどちらも忘れる
迷いの気持ちが脱け落ちて、悟りの心もすっかりなくなった。仏のいる世界に遊ぶ必要もなく、仏のいない世界にも足を止めずに通りぬけなくてはならぬ。凡聖のどちらにも腰をすえぬゆえに、観音様の千眼さえ、この正体を見てとることはできない。鳥が花を銜えてきて供養することなど、顔の赤らむ場面だ。
頌うて言う
鞭も手綱も、人も牛も、すべて姿を消した。青空だけがカラリと遠くて、音信の通じようがない。真赤な溶鉱炉の焔の中に、雪の入りこむ余地はない。ここに達してはじめて、祖師の心と一つになることができる。
真の悟り
自己実現を果たした三四郎さんは、思索にふけりました。
考えるひよこ
三四郎さんは両手を目の前に広げ、静かに自身の手をみました。そして、「この手の中に、真の自己があるのだ」と確信しました。が、体の外に見えていた真の自己や、目標というものが消え去っていることに気がつきました。「真の自己とは幻だったのだろうか?もしかして、自分自身も幻なのだろうか?」
さらに、三四郎さんは問い続けました。
「世の中に、そもそも真の自己である牛など、いないのかもしれない。目に見えていた牛は、幻なのかもしれない。目の前に広がっている家や月、山々、大地、牛、馬、鹿・・・ これらは皆、幻なのかもしれない。ということは、この三四郎自身も幻の一部なのか」と。「そんな馬鹿な」と心の中でつぶやいた瞬間、有である現実世界と、無である意識世界が、一致したような感覚に陥りました。
うっすらと仏の姿、神の国と同等なる世界が分かったような、分からないような、三四郎さんは不思議な境地に達したのです。
第九 返本還源(へんぽんげんげん)
第九に本に返り源に還る
本来清浄にして、一塵を受けず。 有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。 幻化に同じからず、豈に修持を仮らんや。 水は緑に山は青うして、坐らに成敗を観る
頌うて曰う
本に返り源に還って已に功を費やす。 争か如かん直下に盲聾の若くならんには。 庵中には見えず庭前の物 。 水は自ら茫茫花は自ら紅なり。
(現代語訳)
第九にはじめに帰り源にたち還る
はじめから清らかで、塵ひとつ受けつけぬ。仮りの世の栄枯を観察しつつ、無為という、寂まり返った境地にいる。空虚な幻化と違うのだから、どうしてとりつくろう必要があろう。川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青く、居ながらにして、万物の成功と失敗が観察される。
頌うて言う
あらためて根源に立ち還ってみると、努力の限りを尽くしてきたものだ。いっそのこと、盲聾のように、何も見ず聞かずにいるほうがよい。部屋にいると、外の万物は何も目に入ってこない、川は川で果てもなく、花は花で紅く咲うのみ
自己内の無我
三四郎さんは、「もしかして現実世界など存在せず、あるのは意識世界だけなのでは・・・そんな馬鹿な」という不思議な感覚に襲われました。すると、まわりに美しい自然の風景が浮かび上りました。川は茫茫と果てしなく流れ、花は紅く咲き乱れていました。三四郎さんは、これらの自然の風景が、自分の一部であることを察知しました。
ふわふわお化けさん
自己実現を果たすと、今まで見えてこなかったものが見えてきます。山水画では、自然と一体になることに注意が払われます。この山水は、もともと自己ではない、無我の性質をもつ存在でした。自己と自然が一体となった時、山水の持つ無我が、自己と同化したのです。この無我の部分が描かれた絵が、返本還源です。
第十 入廛垂手(にってんすいしゅ)
第十に廛に入り手を垂る
柴門独り掩うて、千聖も知らず。 自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負く。 瓢を堤げて市に入り、杖を策いて家に還る。 酒肆魚行、化して成仏せしむ。
頌うて曰う
胸を露にし足を跣にして廛に入り来る。 土を抹し灰を塗って笑い腮に満つ。 神仙真の秘訣を用いず。直に枯れ木をして花を放って開かしむ。
(現代語訳)
第十に町に出かけ手を垂れる
ひっそりと柴の戸に閉ざしていて、どんな聖者も、その内部を知ることはできぬ。自分の個性的輝きをかくすとともに、昔の祖師の歩いた道をゆくことも拒んでいる。徳利をぶらさげて町にゆき、杖をついて隠れ家に還るだけで、酒屋や魚屋たちを感化して成仏させるのである。
頌うて曰う
かれは、痩せ衰えた胸を露わし、素足で市にやってくる。砂塵にまみれ、泥をかぶりながら、顔じゅうを口のようにしてニコニコと語りかける。仙人の隠しもつ秘術などは使わず、ずばりと枯木に花を咲かせる。
町(ネット)に出て自己実現を誘う
三四郎さんは自己実現を果たし、いつの間にか仙人のような姿になっていました。
うさぎ三四郎
そう考えた三四郎は、徳利をぶらさげてオヤジギャグを言いながら、町で、そして、とある”引き寄せを主題とした夢を叶えるサイト”を通して、ニコニコと語りかけるのであった。秘術のようなものなど使用しないで、日本中の枯れ木のような乾ききった心に、夢と呼ばれる花を咲かせようとするのであった。小僧の姿となったニセハルが相づちをいれるため、三四郎のしょうもないオヤジギャグを聞いて笑うのであった。
こうして「夢をかなえる145」というサイトができあがりました。
ジャズに名曲なし
ただ名演奏あるのみ
野川香文
まとめ
【真の自己探求】十牛図③
三四郎は言うのでした。「夢は叶えるために存在するのだ。引き寄せでもいい、禅寺でもいい、熱く夢を追い続ければいいのだ」と。
めでたしめでたし。
著者プロフィール
- 理系大学を卒業し、製造業に携わっているにもかかわらず、西洋や東洋の思想に興味を持ち、コツコツと勉強しています。
引き寄せ2017.12.25パワーストーン① 酸化ケイ素系
チャレンジド1452017.11.22自由と役割について
生と死2017.11.22「本当に生きる」ということ
悟り2017.10.30ヘルメス思想について☆引き寄せの法則の基本思想