夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
前回までは、神智学についてみてきました。
話を再び、キリスト教ニューソート派にして、具体的にニューソート派から、どのようなスピリチュアルが発生したかを考察しましょう。
【スピリチュアルの起源⑨】メアリー・ベーカー・エディー 「祈り」のみの癒し
メアリー・ベーカー・エディーの一生
1821年7月16日、ニューハンプシャー州ボウの農場で、メアリー(Mary Baker Eddy)が生まれました。メアリーは、アビゲイルとマーク・ベーカーが産んだ6人兄弟の末っ子(女の子)でした。両親に似て、極めて宗教的であり、熱心に聖書を読んで育ちました。
メアリーが14歳の時、ベーカー家はサンボーントン(現在のティルトン)へ引っ越しました。メアリーは元気なとき、サンボーントン・アカデミーに通いました。子どものころから健康問題で苦しみ、虚弱体質でした。家族や友人からは、「大人になるまで生きられないだろう」と言われていました。
2度の結婚
1844年 、彼女は22歳でジョージ・ワシントン・グローバーと結婚し、メアリー・ベーカー・グローバーとなりました。ジョージは彼女より11歳年上で、サウスカロライナ州で建設事業を営んでいましたが、6ヵ月後に、黄熱病のために急逝しました。メアリーは、ほとんど無一文の状態で、北部のベーカー家へ戻りました。彼女は身ごもっていました。そして、息子・ジョージ・グローバー・ジュニアが誕生しました。 虚弱であった彼女は、その後、健康状態が悪化していきました。しばしば体の苦痛で動けなかったので、近所の農場のチェニー家が、幼いジョージの世話をするようになりました。
1853年、メアリーはダニエル・パターソンと結婚しました。お互い愛情がありましたが、結婚生活は悪化していきました。 メアリーの幼い息子・ジョージ・グローバーは、ニューハンプシャー州の田舎町・ノース・グロトンにあるチェニー家の世話になっていました。息子の近くに住むため、パターソン(メアリー)夫妻は、ニューハンプシャー州のフランクリンから、ノース・グロトンへ引っ越しました。しかし、息子の世話をしていたチェニー夫妻は、すぐに西部に引越し、11歳のジョージもチェニー夫妻と共にいきました。そしてジョージは、20年以上、母メアリーと再会することはありませんでした。 パターソンは、よく寝たきりになる半病人の妻メアリーを経済的に支えるため、家の近くにあった製材所の所有権を半分購入しました。だけど、この事業は負債を残しただけでした。1860年に、製材所と家は、抵当流れになってしまいました。夫妻は、引っ越すしかありませんでした。ラムネイで家を借り、ここで数年間、安らかな生活をおくりました。が、夫はよく家を離れていました。 その後、パターソン夫妻は、靴製造業で繁栄していた都市・リンのはずれにある、マサチューセッツ州スワンプスコット、パラダイス・ロードのアパートに引っ越しました。
1840年代~1860年代、彼女は、当時の様々な治療法を用いて、自分の健康を回復させようとしました。そのなかには、同種療法、水治療法、グラハム食餌療法がありました。その頃、多くの自称「癒し屋」が、医薬品を用いない科学治療を宣伝していました。
クインビーとの出会い
1862年、メアリーは、「癒し屋」の一人であった、メイン州ポートランドのフィニアス・P・クインビーを訪問しました。クインビーの治療により、しばらくの間、彼女の健康はすごくよくなりました。 聖書を深く信じていたので、彼女はクインビーの治療法をみて、福音書の「あらゆる病」を癒したイエスの方法を思い出しました。だけど、彼女が試みた他の「治療法」と同じように、クインビーの治療法も効果は長続きしませんでした。
色々な治療方式を試みることにより、メアリーは、「身体的な病気の原因は心的である」と考えるようになりました。これらの経験は「聖書の癒し」についての研究とあいまって、彼女を霊的発見へと導きました。そして、この発見を最終的に、キリスト教科学(Christian Science)と名づけました。
「祈りのみ」による回復
1866年2月1日の夕方、マサチューセッツ州スワンプスコットで、パターソン夫人(メアリー)は、凍結した歩道で転倒し、重症を負いました。翌日、医者は彼女をソリで自宅に移動させ、2階にあるパターソンのアパートへ運びました。ストーブの暖かさが届くように、台所の簡易ベッドに寝かせられました。そこに横になり、立ち上がることも歩くこともできず、ほんの少しでも動くと激しい痛みに襲われました。 つき添っていた医者は、「回復の見込みはほとんどない」と考えていました。心配した友人たちが応接間に集まり、最悪の事態に備えていました。当然、牧師も呼ばれました。夫は家にいなかったので、「すぐ帰宅するよう」電報が打たれました。そのまま3日がすぎました。が、よくなる兆しはありませんでした。
日曜日、彼女は聖書をひも解き、イエスによる癒しの話に、深い霊感を得ました。 深遠なる霊的洞察の瞬間、彼女は突然、誰の手も借りずにベッドから起き上がり、部屋を横切ることができました。友人たちは驚きました。彼女は、「これは祈りのみによってもたらされました」と語りました。健康状態がよくなるにつれ、聖書をひも解いた瞬間が転機であったことに気がつきました。
それから、夫ダニエル・パターソンは、彼女の元を去りました。貧しい状況下、メアリーは間借りを繰り返しました。 そのなかで彼女はずっと、自分を癒した力を理解しようと、絶え間ない探求をつづけました。彼女は短時間でしたが、霊的なことを深遠に、明晰に垣間見る経験をしたのです。メアリーは45歳になろうとしていました。困窮し、虚弱で、誰一人として頼る人がいませんでした。
1866年から、メアリーは自分の発見を試しました。祈りのみによって、次から次へと患者を癒していきました。 臀部を脱臼した女性、指を化膿させた男の子、結核の男性、生まれつき足が悪い子ども、事故で押しつぶされた者、全員が癒されました。 腸炎、肺炎、ジフテリア、癌、精神異常、硬直した関節、聾者、唖者、脳脊髄膜炎、カリエス症、奇形の手足などの患者を癒しました。
メアリー・ベーカー・エディーの「聖書研究」
メアリーは、「自分が経験した癒し」と「神の霊的な法則」が、どのように関連しているかを探求しました。後に、「1866年からおこなった、すべての癒しの原因は心、すなわち「神」 にあり、あらゆる結果は心的現象であるとする科学的確信を得た」と記しました。 1867年~1870年、メアリーはますます聖書、特にイエスの癒しについての研究を深めました。おびただしい量のメモが遺されていて、この何百ページにもわたるメモを調べることにより、「彼女の考えがどのように発展していったか」をたどることができます。
メアリーの発見は、徐々に明確になっていきました。そして説教やクラス指導をすることになり、著書も出版され、当時、最も尊敬され話題となる女性となりました。 彼女の発見には、まだ名前がありませんでした。彼女は、この発見を「しるしをもった」原始キリスト教の復帰を実現することであると理解していました。はじめは、自分の思想体系を「道徳科学」と呼び、その心的性質を強調しました。後に、この思想体系を「キリスト教科学(クリスチャン・サイエンス)」と名づけ、キリスト的性格を強調しました。彼女はつぎのように書いています。
私は、それをキリスト教科学と名づけた。なぜならそれは、思いやりがあり、役に立ち、霊的であるからである。私は神を、不滅の心と呼んだ。罪を犯し、苦しみ、死ぬものを、滅びる心と名づけた。肉体的感覚、すなわち感覚に訴える性質のものを、誤りや影と呼んだ。魂を、実質と名づけた。なぜなら、魂のみが、真に実質的であるからである。神を、個人的な存在とみなした。しかし、神の肉体性は否定した。実在するものを、永遠であると主張した。そして、その正反対のもの、すなわち一時的なものを、非実在と説明した。霊を、実在するものと呼んだ。そして物質を、実在しないものと呼んだ
Retrospection and Introspection 『回顧と反省』
メアリーは、「癒しは、道徳的再生と霊的成長への入り口にすぎない」とも断言しました。
身体の病気を癒すということは、キリスト教科学の最も小さな部分である。より高い無限の善の領域にあって、癒しは人の考えと行動を呼び覚ます召集ラッパの音にすぎない。罪を癒すことが、キリスト教科学の重要な目的である。そして、罪を癒すことは、病を治すより難しい。人間は病気になることを好まないが、罪は好んで犯すからである。
『神性科学の基本』
まとめ
【スピリチュアルの起源⑨】メアリー・ベーカー・エディー 「祈り」のみの癒し
メアリー・ベーカー・エディーの基本思想
- 霊がすべてであり、物質は無である。罪・病い・死は、誤った信念、過失、死すべき心である。
- 心と身体の無秩序に苦しむ人が、罪や病いをなくすためには、「真理」「原理」の正しい理解に達すればいい。
著者プロフィール
- 理系大学を卒業し、製造業に携わっているにもかかわらず、西洋や東洋の思想に興味を持ち、コツコツと勉強しています。
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