夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ
私は10代の頃から多くの苦しみを経験してきました。
それらの苦しみは表面的な苦しみではなく、人生を根こそぎにするような根源的な苦しみでした。
他人には決して分からない、明かすこともできない苦しみ。
過去も、現在も、未来もすべて奪われるような苦しみ。
社会的な失墜の苦しみ。
生きながら死人のように存在しなければならないような苦しみ。
私に降りかかってきた苦しみは、ほかの人からすれば想像もつかないような、世界で自分一人だけじゃないかと思えるような苦しみでした。
苦しみ―私の物語、あなたの物語
5年、10年、15年・・・
ずっと離れ去ることのない苦しみとそこから生じる悲しみと共に生きてきました。
この苦しみはなぜ起こらなければならないのか。
なぜこの人生に降りかかってこなければならないのか。
どうして・・・なんのため・・・
苦しみの真っただ中のときには何も気づくことができず、ただ自分に降りかかった苦しみを呪い、心の内側で叫び、神様に反抗の声をあげるだけでした。
「何も悪いことはしていないのに、こんな苦しみを与える神様が罰せられるべきだ・・・」。
10代の頃の私はそんな言葉を心の中で叫んでいました。
「なんで自分だけが・・・」
自分の内側でいくら問うても、いくら叫んでも、それに応えてくれるものはありません。
あるのは無言の沈黙と暗闇だけです。
私の胸をついて出た最初の叫びは「どうして私はこんな目に遭わなくてはならないのだろう」という、避けることのできない悲しみを前にして、すべての人々が昔から幾度となく口にしてきたあの叫び声、そうです、あの同じ叫び声でした。
― パール・バック
当時の私は、ただただ自分に降りかかった苦しみの運命を呪い、人には明かせない悲しみを内に抱き、変えることのできない現実に押しつぶされて生きるだけでした。
でも、今は違います。
あれから何年も経ち、それまでの自分とはまったく違う心持ちで生きています。
長い苦しみの期間を経て、乗り越え、今生きている地点から振り返ってみたとき、自分に降りかかってきた苦しみの意味が明瞭に分かるのです。
恐ろしいほどの苦しみ、長きにわたる苦しみは、明らかに私の心と意識を変えました。
それは生き方や意識の持ち方が180度変わる、心の在りようがまったく別物になるような変化です。
苦しみを通して、多くのことを学び、気づくことができました。
その多くは、自分の弱さ、小ささ、愚かさ、無知、未熟さ、誤り、過ち、浅はかさ、などに対する気づきと自覚です。
苦しみがなければそのような自分自身に気づくこともなかった。
自分自身を知るために、自分自身に気づくために、苦しみは必要だった。
苦しみはそれを教えてくれた。
苦しむこと、教えられること、変化すること。
ギリシャ語で「パトス」とは、同時に「苦しみ」と「変容」を意味する。
― シモーヌ・ヴェイユ
苦しみは、裏を返せば気づきと理解をもたらしてくれる力。
それは、心を、魂を、鞭打つような形で変容させる力。
苦しみが大きければ大きいほど、そこから学べるものも大きい。
苦しみが深ければ深いほど、そこから生じる変化も深い。
今、私がはっきりと思えるのは、苦しみを味わってきた自分と、苦しみを味わうことのない自分とでは、大きな隔たりがあるということです。
苦しみを通して変化してきたことは、心の弱さや未熟さといった面だけではありません。
何か今まで見えていなかったもの、聴こえていなかったもの、感じることのできなかったものがゆっくり花開き、目と耳と心が新たに生まれ変わる・・・そういう喜ばしい変化も生じました。
同時に、心と意識のあり方が変わったことで、智恵や洞察、新しい価値観、創造性といったものも花開いてきました。
これらはすべて自分で学んだというよりも、自然と内側から育ってきたもの、花開いてきたもの、苦しみがもたらしてくれた果実です。
自分のなかに大きな変化が生じるということ。
苦しみは魂を成熟させる力となるということ。
苦しみは果実をもたらす種であるということ。
苦しみには理由がある。
痛みはレッスンの一部。
痛みに心を清めてもらおう。
痛みは新しい目と耳を得るための方法。
また、多弁だったあなたが静かになるための、
家にいたいなと思うときでも旅に出るための、
自分の手でほんとうに誇れることをするための方法。
苦痛がそれを美しいものにしてくれるだろう。
苦痛は現実を可能にする。
苦しみとはより鋭く、より明晰な世界への自己変革だ。
そこでは、愛のある親切が始まる。
― ナンシー・ウッド
意味のない苦しみというものはありません。
苦しみ一つ一つに意味がある。
この一瞬一瞬に起こるすべてに意味があるように、自分に降りかかる苦しみのすべてに意味がある。
意味がなければ、それは起こらない。
意味があるから、それは起こる。
意味があるから、苦しみは私たちと共にある。
では、苦しみの意味とは何か―
変化をもたらすこと。
気づきをもたらすこと。
理解をもたらすこと。
学びをもたらすこと。
智恵をもたらすこと。
成熟をもたらすこと。
自由をもたらすこと。
喜びをもたらすこと。
心を変えること。
意識を変えること。
魂を変えること。
人生そのものを変えること。
感受性を開花させること。
創造性を開花させること。
独自性を開花させること。
新しい扉を開くこと。
新しい世界を開くこと。
そして苦しみは、私たちを未知なる生へと運んでいく・・・
苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。しかしただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかはないと思われる。
人間が真にものを考えるようになるのも、自己に目覚めるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。これこそ苦悩の最大の意味と言えよう。この意味で「人間の意識を作るものは苦悩である」というゲーテの言葉は正しい。苦しむことによって人は初めて人間らしくなるのである。
自分に課せられた苦悩を耐え忍ぶことによって、その中から何ごとか自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それはまったく独自な体験で、いわば自己の創造と言える。それは自己の心の世界を作り変え、価値体系を変革し、生活様式をまったく変えさせることさえある。
人は自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自らの苦悩の中から創り出しうるのである。知識や教養など、外から加えられたものと違って、この内面から生まれたものこそいつまでもその人のものであって、何ものにも奪われることはない。
― 神谷美恵子
苦しみの声に耳を傾けるということ。
苦しみそのものに真正面から向き合うということ。
苦しみは「声」であり、その声は私たちに何かを訴えかけている。
苦しみのメッセージ、生は苦しみを通して私たちに呼びかける。
逃れることのできない悲しみと苦しみを耐え忍ぶということは、何か独りで悟らなくてはならないようなことがあるからです。
― パール・バック
苦しみの大きさ、形、レベルはそれぞれ違うもの。
私たち一人一人、苦しみを通して気づかなければならないことがある。
私たち一人一人、苦しみを通して変わらなければならない何かがある。
私たち一人一人、苦しみを通して新しい場所へと向かっていく。
私たち一人一人、苦しみを通して新しい扉を開いていく。
その人生は、その人だけのもの。
その人の創造と変化は、その人だけのもの。
私の苦しみは私だけのもの。
あなたの苦しみはあなただけのもの。
同じ苦しみでも、一人一人が背負う苦しみとその意味はそれぞれにまったく違うもの。
苦しみの数だけ人間が存在し、苦しみの数だけ意味がある。
生きなければならない人生も、行きつく場所も、みな違う。
そこに人間の価値があり、存在の意義がある。
それは私たち一人一人の物語。
私に与えられた物語、あなたに与えられた物語。
ほかの誰でもない、私だけの物語、あなただけの物語。
苦しむことは尊く、人間の誇り。
苦しみと悲しみの十字架こそわれわれの誇りうるものである。なぜならば『これこそわれらのもの』であるから。
― アッジシの聖フランチェスコ
あなたの苦しみが光をもたらし、幸いをもたらし、自由をもたらし、喜びをもたらしに、人生をより豊かに、より輝くものにしてくれますように―
著者プロフィール
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10代の頃から人には言えない多くの苦しみを経験してきました。20代半ば、自身の人生の虚しさから生きる意味や価値をやみくもに追い求めて失敗。その大きな失敗は精神的な危機をもたらしました。その後、失敗や苦しみの経験を糧に自身の生き方を改めてきました。
「苦悩は魂を根源的に変える」。今はそう強く感じます。
現在、雪の多い北国の田舎でライターの仕事をしつつ、畑で野菜作りをし、自然の中で瞑想し、カラスたちと戯れ、家で古今東西の本を読み・・・そんな日々を送っています。自身の弱さや未熟さを自覚し、学びつつある毎日です。
野菜作りは川口由一さん流の自然農を実践しています。
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