「もう、ここらで終わりにしようか」
という時に使われる言葉、「潮時」。
実は、「潮時」の本来の意味は、何かの終りを示す言葉ではないのです。「潮時」の本当の意味は、いったいどういうものなのでしょうか?そして、なぜみんな、間違ったまま「潮時」を使っているのでしょうか?
言葉は生き物です。間違って使われるには、それなりの理由があるはずです。
セルフイメージの変容と引き寄せ
By 自由堂ノック
「もう、ここらで終わりにしようか」
という時に使われる言葉、「潮時」。
実は、「潮時」の本来の意味は、何かの終りを示す言葉ではないのです。「潮時」の本当の意味は、いったいどういうものなのでしょうか?そして、なぜみんな、間違ったまま「潮時」を使っているのでしょうか?
言葉は生き物です。間違って使われるには、それなりの理由があるはずです。
By AZEMICHI
映画「ルーシー」は、主人公ルーシー(スカーレット・ヨハンソン)が、とんでもない事故で脳の構造に異変が起こり、スーパーマンも足元に及ばない超能力をつけるというSF映画です。が、映画の紹介が、今回の目的ではありません。この映画のサイエンス性は、普通の人間の脳細胞は、死ぬまで約10%程度しか使っていない、ということからはじまっています。ルーシーの脳の活動領域は、20%、30%と次第に増え、100%に届いた時、ついには“神って”しまいます。
ところで、身近な脳力で「記憶力」があります。脳力の一部とはいえ、10%程度しか使っていないのなら、脳を開発することで、せめて20%まで活用できればスゴいことになるのではないか?と想像してしまいます。
そこで思うのが、一体、人間はどこまで物事を記憶することができるのか?また、記憶を高めるには、どんな方法があるのか?という疑問です。たとえば、円周率を何万桁まで覚えられる人がいますが、そもそも頭の構造が違うのか、はたまた単なる“コツ”なのか、大変興味深いものがあります。
By 栗本真咲
現実世界から物語世界を覗く時、大抵の場合、その覗き穴となるのは、主人公の目であり、耳である。読者は、主人公を通してしか、物語世界に入り込むことはできない。だから、物語の中で、主人公の性格や容姿、境遇、行動や決断が、物語の進行を方向づける重要な役割を果たすことはいうまでもない。
たとえば『サンドリヨン』は、美しく気立てのよい主人公サンドリヨンが、王子の愛を受けて、困難を乗り越えて、幸せを手に入れる物語である。意地悪な継母や姉たちにいじめられている彼女の境遇は、同情に値するものであり、容姿と性格のよさは、彼女に対する一層の憐れみと思いやりを呼び起こさせる。そしてこの物語の見どころといえば、やはり主人公サンドリヨンが、苦難の末に王子と結ばれる場面である。不幸な現実の中で、運命を切り開いていく彼女の姿は、時代を超えて、我々の心に大きな共感と感動を呼ぶ。 『シンデレラ』の名で知られるこの物語は、今なお、多くの女性たちの支持を集め、ディズニーランドのシンデレラ城には毎日数多の人々がやってきて、彼女の心に想いを馳せる。サンドリヨンに感情移入し、彼女の目線からストーリーを追うことで、我々はこの物語を楽しむのだ。
ところで、川には岸辺が、木には枝が、手紙には余白があるように、物語には主人公の他に、脇役が存在する。そして彼らこそが、物語の中で重要な鍵を握っていることも少なくない。
主人公の目線から物語を見る時、主人公は物語の登場人物であり、また自分自身でもある。しかし脇役は、主人公にとっても、読者にとっても、紛れもない「他者」である。主人公、すなわち読者とは、一定の距離感を保つことで、脇役たちは物語の一部として、設定の中に紛れ込む。しかし、彼らもまた、彼ら自身の人生を生きる独立した個体であり、彼らの意思を持って行動する。決して森や空や橋や城のように、不変的に主人公を取り巻いているわけではない。脇役たちは、それぞれが立派な登場人物として、また物語の動く背景として、物語全体を支えているのだ。
今回は、完訳『ペロー童話集』(新倉朗子訳、岩波文庫)の『サンドリヨン』のお話から、そんな愛すべき脇役たちの姿に迫りたい。
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