―――まったく、今どきの若ぇ者は―――
こういうものの言い方は、古代ギリシアにもあったらしい。いつの時代でも、老人たちにとって若者は、眉をひそめる対象だったということだろう。身の回りの物事の変化が、これまでのどの歴史時代にもまして大きい現在、こうした若者への風当たりは一層強まっているのだろうか。当否は分からないが、僕が気になるのは「今の若者はコミュニケーション能力が低く、精神的に弱い」という言い回しだ。
また、“ゆとり”という言葉は、本来肯定的な意味しか持たないはずだが、そこに“世代”という二文字がくっついた途端、若者を貶めるニュアンスに変化してしまう事にも、釈然としないものを感ずる。というより、われわれ大人世代が、自分たちの理不尽な在りようを隠蔽するために、都合よく口にしているようにしか聞こえない。
今どきの若ぇ者①
そもそも“ゆとり教育”を考え、実施したのは、その教育を受けた彼らではない。われわれ大人がやったのである。また、若者のコミュニケーション能力低下の原因として、いわゆる“デジタル・ネイティブ”世代が、生まれつきSNSを介してのヴァーチャルなコミュニケーションに慣れてしまったために、リアルな対面コミュニケーションに支障を生じていることがしばしば取り沙汰される。もしこれが妥当な解釈なら、われわれは考えを改めねばならない。それらのネットワークや通信機器を作ったのは彼らではない。われわれなのだ。原因を作った者が、その結果を被った相手を非難するほど愚かなことはないだろう。今の若者達は、ある意味で素直なのだ。もし僕が彼らの立場なら、間違いなくこう言う。
―――てめぇ達で原因作っといて、何で俺達に文句言ってんだよ―――
彼らにそれ以外の状況を選択する自由はなかった。いわば、望まない妊娠をしておいて、生まれて来た子に責任を迫るようなものだ。理不尽にも程があろう。
予備校の教壇に立ち、日々若者と接している僕の実感とすれば、なるほど、僕がティーンエイジャーだった頃に較べて今の若者たちは、確かに精神的なタフネスに欠けて見えることはある。引きこもりや不登校になってしまう子のパーセンテージは30年前に比べて明らかに高い。少し厳しく叱りつけると、そこで関係性が切れてしまう生徒も少なくない。感情のコントロールも上手とは言えないだろう。しかし、そうした事をもって「今の若者は精神的に弱い」と決めつけてしまうのはアンフェアに過ぎよう。全く逆の事態があることを、意図的に無視している。
今、いわゆる“ゆとり世代”やその下の世代は、世界的に活躍するアスリートを大勢輩出している。これほど多くの日本の若者が世界で実力を発揮した時代があっただろうか。
30年前を思い出してみるといい。国内では無敵でも、海を越えた途端に全く実力を発揮できない選手ばかりだったではないか。プレッシャーに押しつぶされ、惨めな結果に終わる選手の方が多かったではないか。翻って、今世界で活躍している若者たちが、なんと伸びやかに自分を表現し、その実力を遺憾なく発揮していることか。彼らのパフォーマンスが、30年前のアスリートたちに比べて圧倒的に高いのは明らかだ。その彼らに向かって“今の若者は精神的に弱い”と言うのは、どう考えてもおかしい。
かつての選手たちには、ストイックな悲壮感が漂っていた。練習も、“トレーニング”というより、スポ魂チックな“修行”だったと言っていい。そうした練習に耐え抜くには、確かにほとんどマゾヒスティックな精神力――いわゆる、“根性”――が要求されたのは確かだろう。あのようなトレーニングは、今の若者達に要求できまい。
しかし、そうしたトレーニングをしない今の若者達の方が、国際的にははるかに大きな結果を出していることをどう考えるのか。昔とは違う方法で、はるかに高いパフォーマンスを実現している者達にかつての方法論を押し付け、それがこなせない事を根拠に“弱い・脆い”と断ずるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。かつての方法論を耐え抜いた“強い”はずの連中の国際的実力は、今の若者達の足元にも及ばなかったのだから。
だとすれば、今の若者たちが弱く見えるのは、世界的に充分に実力を発揮できるポテンシャルの持ち主たちに対して、頭の固い連中が、実績を伴わない間違った方法論を押し付けるからに他なるまい。一定以上の才能の持ち主に対して間違った方法論を押し付ければ、才能のない普通の人間以上に不具合が生じるのは当たり前だ。彼らは弱いのではない。僕らが間違った方法論を強要することで、彼らをスポイルしているだけなのだ。僕らはもういい加減、そういう想像力を軸に、彼らのポテンシャルを引き出すセンスや方法を考えなくてはダメだ。20年後、30年後の日本を誤らしめるとしたら、それは彼らではない。間違いなく僕らだろう。そうなってからでは遅いのだ。
そもそも、僕らや僕らより上の世代の人々は、自ら豪語するほど精神的にタフだったのだろうか。
いわゆる“団塊の世代”と称された世代やその下の世代の日本人が厳しい労働条件や叱責を伴うハードな教育に耐えられたのは、年功序列や家族的経営手法などに代表されるような人間関係が前提条件として確立していたため、組織と個人との間に濃密な信頼関係があったからである。一時的に困難を経験しても、一定期間ガマンしてやり過ごせば、組織内での地位や報酬の向上は保証されたのだ。また、面倒見のいい兄貴肌・姉御肌の先輩が必ずいて、シゴキもするが、公私に渡ってなにくれとなくフォローしてくれていた。そういうセーフティーネットが万全だったからこそ、厳しい環境や要求、トレーニングに耐えることができたのである。では今の若者達に、そうした環境があるだろうか。あるまい。同じ状況を共有しない者に、結果としての同じタフネスを要求するのは、そもそも筋の通らない話だろう。別に団塊世代が特別強かったわけではない。彼らは状況に恵まれていた。それだけの事だ。
著者プロフィール
- 長野県上田市出身。明治大学文学部卒。予備校講師(国語科)、カイロプラクター、派遣会社の営業担当等を経て、予備校講師として復帰。三児の父。居合道五段。エッセイ・小説等でこれまで16のコンテストで受賞経験あり。座右の銘は『煩悩即菩提心』。2016年、山家神社衛士(宮侍)を拝命。WEBサイト「Holistic Style Book」、「やおよろず屋~日本記事絵巻」、地方スポーツ紙「上田スポーツプレス」でも活動中。右利き。
発想法2018.03.24正義のバトン(2/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
親子2018.03.03正義のバトン(1/8:第一回Kino-Kuni文學賞佳作受賞作品)
心理2018.02.07帰って来い、ヨッパライ!(4/4)
発想法2018.01.11帰って来い、ヨッパライ!(3/4)